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思想・感情・オタク

「言語化」の難しさ

哲学の面白いとこは、誰しも一度は考えたことがあるようなシンプルな疑問を徹底的につき詰めて考えるとこなんですよね。だから色々読んでると、あっこれ私も昔考えたなぁ〜ってことがちょいちょいある。えらい哲学者たちも普通な私たちも、基本的なアイディアは人類みんな一緒なんだなぁと感動します。

 

与えられた感覚・感情等を言語化することの難しさについては、古今東西のすごい哲学者たちもうんうん頭ひねって色々考えてるんですけど、それって私達が本読んだり音楽聴いたりしてア〜エモいよ〜〜言語化したいよ〜〜ってのたうち回るのと同じと言っても過言ではないんですよね(過言)だってこれとか、言語化したいオタクが思うことそのものじゃないですか?

 

(表現が)厳密さを欠くのは、通常、一つの事物を広すぎる類の中にふくませるからであり、しかも、事物や類といったものが、既成の言葉に応じているからである。けれども、まず既成概念をはなれ、事象的なものの直接的な視覚をもったうえで、その事象の分節を念頭において細分するとすれば、表現のために作るべき新しい概念は、今度こそ、その対象の寸法にぴたりと合わせて仕立てられるわけである。(ベルクソン「哲学の方法」)

 

ベルクソン全然詳しくないんであれですけど、事象にぴたりと合わせて新しい概念を仕立てるっていうのは、端的には新しい表現を生むってことだと思いますけど、これがメチャクチャ難しいんですよね・・・。そういう意味だと詩人はそのスペシャリストですよね。私も詩を読むの好きなんですけど詩人はホントすごい。どっからそういう発想が出てくるんだっていうような、予想外の、文脈から外れるギリギリの言葉の組み合わせでも、何故かしっくりくる新しく豊かな世界を構築する能力・・・。これについては、ロシア・フォルマリズムという運動が詳しく掘り下げてます。

 

1910年代半ばから1920年代のロシア(ソ連)の文学批評の一派を指す。(…)作品の文学性を言語の詩的機能や、事物の再認識である異化作用という面から特徴づけ、芸術における手法を重視し、素材を手法の動機付けとして見た。(百科事典マイペディア『ロシア・フォルマリズム』)

 

あとLINEスタンプってこの「対象の寸法にぴたりと合った表現をしたい」っていう欲望に忠実に対応してますよね。例えば「了解」って伝えるにも、今のこの「了解」って気持ちにピッタリ当てはまる「了解」を表して伝えたいから、色んな「了解」の中でハム太郎の「了解」を使ったりゴルゴ13の「了解」を使ったりするわけで。LINE使い始めた頃は「こんなん誰が買うん?」と思ってたけど、200円ちょい払えば使いたい表現使えるんだからそら買いますわ・・・。しかし最初に「これは売れる!!」て思ってLINEスタンプ開発始めた人は本当にすごいと思う。

 

あとこれは、えらい哲学者が「こ、この感覚・・・これはどうやって記述すればいいんだ・・・!?」と悩んでいる様子です。専門用語みたいなのは、適当に字面から想像する感じで読み流してください・・・。

 

現象学的記述において、原的所与に対して漠然として流動的な記述を施すのは)単一の意義をそなえた用語のみでは、ほかの多くの直観的所与への適応力を欠いてしまうからだ、と彼はいう。つまり、素朴な直観からそのままとりだされた本質を記述するような認識次元では、こうした表現こそがただひとつ正当なものであり、それがやがて類的本質のさよざまな読みとりや、意識分析の進歩にともなって、しだいに細かく区別されてゆくのである。(p.21)

 

20世紀言語学入門 (講談社現代新書)

20世紀言語学入門 (講談社現代新書)

 

 

この「彼」というのはフッサールのことです。フッサール現象学という分野を確立したのですが、彼の場合はその学を通してだんだんピッタリの表現が出来るようになると考えてたみたいですね。

 

また、フッサールが「一般の言語使用にみられる多義性には、たえず慎重な注意が必要であるとともに、以前のかかわりで決められた事柄が新しいかかわりのなかでも本当に同じ意味で適用されているかどうか、たびかさなる再吟味も必要だ」と注意をうながしながら、どこまでも記述に日常言語を使用するよう説いているのだとすれば、これはやはり、ベルクソンと同様、「既成の言語」を疑い「対象の寸法に合った概念」をもとめ続けてゆく、無限にくり返される彼の基本姿勢の表明でしかないのである。(p.21)

 

「既成の言語」「常識の言語」に満足せず、もっとピッタリの表現があるはずだ!それを求め続けるぞ!!という意思・・・うーん、言語化に苦しむ我々オタクと一緒ですね(過言)

ちなみにこの本は、言語学史の方法論的解説がほとんどなので、引用が気になった方は直接ベルクソンフッサールを当たった方がいいです。

 

 

 ~~~~~まとめ~~~~~

人類滅亡の快楽

遅まきながら「シン・ゴジラ」を観て(アマプラで配信開始した)、エヴァ好きとしては庵野さんさすが〜と思いながらこれを思い出した。 

 

 

エヴァもシンゴジも同じく「人類が危機に晒される快楽」を強く感じたな〜。庵野さんの趣味か?エヴァだと人類は補完されて意識の個別性と肉体を失うし、シンゴジだと「大量の人型ゴジラが世界に拡散される」可能性を示唆して終わる。ラストで不穏な余韻を残す映画、メチャクチャ好み・・・。

それと比べると、ハリウッド映画でよくある「地球は俺が救うぜ!」的なやつ(「アルマゲドン」とか「12モンキーズ」みたいな)は「(全体的・抽象的な)人類滅亡しそう」が強力な後景になってて、実存的人間の個人的・具体的な生を効果的に前景化する強制的ハッピーエンドシステムになっている。多少(わりと多い)の人死にはハッピーエンドに陰を落とさない辺り、ハリウッドはこまけぇこたぁ気にしないですね(日本映画だとそうはいかない気がする)。それはそれで良いんですけど、やっぱり私は最後の最後に不穏なワンシーンを持ってきて「もしかしたら・・・」と思わせてくれるような映画が好きです。まぁでも一番好きな人類滅亡映画は「博士の異常な愛情」なんですけどね。アルマゲドンでハウンドが「観た?」って言ってましたね。映画って完全に神の視点なので、ハッピーもアンハッピーも似たようなもんだよな・・・と思います。

「人類滅亡」というディストピアはひとつの理想なんだな、と改めて考えると不思議ですよね・・・まぁでもほんとに滅亡したら私だっていないわけだし、そんなに恐ろしいことではない。一番恐ろしいのは「ゼロ・グラビティ」とか「月に捕らわれた男」みたいなやつですよ・・・マジで・・・宇宙は・・・怖い・・・・・・

 

ベンヤミンは興味あるし読みたいんですけど、文章が難解でなかなかとっつきにくい。なのでこういうbotでエッセンスだけ楽しめるのはありがたいですね。「芸術の政治化」って何だ?気になる。

ファシズムの歴史の「何故そうなったか?」という過程にはとても興味があって、それに社会学・心理学的な説明を施す本は読むんですけど(フロム「自由からの逃走」とか)、どうしても具体的な惨状は知りたくないという気持ちがあって・・・。戦争映画が大嫌いなので・・・。戦争映画は神の視点じゃなくて、人間としての現実的な視点なのでキツい。そういう理由で観られてない映画いっぱいある。観る覚悟ができる日は来るのか・・・。

無限に広がる大宇宙

www.nicovideo.jp

 

こういう専門外の人でも楽しめる哲学コンテンツは最高~

私は「ある一分野を深く掘り下げたい」っていうより「面白いものを広く浅く知りたい」タイプなので、たぶん一生何かしらの入門書読んでると思う。だからこういうライトなコンテンツ大好きなんですよね~。あと情報ってほとんど本からだから普通に目が疲れるじゃん・・・耳からの情報はボーッとしてても入ってくるから良い。週一くらいでこういうラジオあったらいいのにな~。

ちなみにこの動画の中の人・ゆーきさんは、溢れ出るオタク感とメッチャ早口のキモオタ喋りで非常に親近感が湧きます。

 

私は高校のとき倫理の授業がなかったんですけど(さらに言えば音楽も美術も無かった、受験科目以外の授業は無かった・・・)興味はあったので、資料集はどっかから貰って持ってたんですね。それを発見したので読み返してみたら、これが超~~~有能でビックリしました。大人が読んでも面白い。当然っちゃ当然なんですけどまさに哲学入門って感じで、思想史の超重要~普通くらいの範囲はこれ一冊でカバーできる・・・。高校倫理すごい・・・。これ高校生のとき教わりたかったな~!!

 

詳解倫理資料

詳解倫理資料

 

 

高校生のときにこれ一冊完璧にしていたら、その後の人生での色んな思想分野の開拓がスムーズだろうなと思います。ワケわからん思想に出合っても耐性あるだろうし・・・。ちなみに私が出合ったワケわからん思想ナンバーワンは、ハルトマンという人の「人間は苦しむために存在している・・・消滅した方がいい・・・しかし仮に全人類が自殺したって宇宙はまた人間を生み出すだろう・・・宇宙そのものを永遠に消滅させる方法を考えるしかない!!」ってやつです。超デカダンス・・・。

ちなみに宇宙論とか量子論とか、最先端科学と哲学思想が重なり合う部分は結構あって、今や科学と哲学はすごく密接に関わり合ってるらしい。ポーキングホーンという宇宙物理学者が「宇宙で人類が誕生する可能性は超低いのに人類が誕生したのは、神の力が働いて宇宙を微調整したから」的なこと言ったりとか。神って概念はもはや神学とか哲学とかの専売特許じゃないんですね〜。つきつめると神の存在を認めざるを得ないような事象に出合うことが多々あるみたいです。ヒエ〜〜〜マジでロマンしかねえ・・・。理系科目ことごとく苦手だからこういう分野の理解が及ばないの悔しいな〜。でも宇宙ってワードが哲学にブッ込まれた途端メチャクチャ胡散臭くなるのウケる。

 

中国脳 - Wikipedia

 

インテリジェント・デザイン - Wikipedia

 

karapaia.com

 

あ~こういうのすごいワクワクしますね~~!!心が中学生になる〜〜〜!!!!

私がダンスの上手いアイドルを好きな理由


[CHOREOGRAPHY] BTS (방탄소년단) 'FAKE LOVE' Dance Practice

 


Moonlight night~月夜の晩だよ~

 


前略、道の上より 一世風靡セピア

 

一世風靡セピアはアイドルです!!!!!!

アイドルを見ていて、私はダンスが上手い人とか運動神経がいい人がメチャクチャ好きだな・・・って思ったんですよね。バク転とかされるとキャ~~~♡♡♡てなる。なんでかなって考えたら、自分の身体を完全に自己統制下におけるのって、改めて考えるとメチャクチャすごいことなんですよね・・・。

 

 「暗黙知」っていうのがあります。これは「暗黙のうちに知ること」(そのまんま)なんですけど、例えば泳ぐ・自転車に乗るとか、いわゆる「体で覚える」っていう類いのものですね。意識化されない身体的な知識のことです。これってホント身体が賢いですよね。この「暗黙知」のカバーする範囲が広ければ広いほど、身体能力のポテンシャルが高い・センスがあるってことなんだと思います。「身体が頭いい」っていう表現がピッタリくる。最初から運動得意な人と、努力しても運動苦手な人の差はこれだと思うんですよね。私はこれがほんとダメで・・・。体育大嫌いでした。陸上競技も球技も体操も何もかも苦手でした。身体的ポテンシャルの低さハンパじゃないです。だから自分が持ってないものを持ってる人に魅かれるっていうのもありますね。

私は運動音痴だし、病弱だし、メンタルもクソ弱だしで、自分自身の身体に振り回されてばかりで、自分の手綱を自分で握ってるという感じが全くしないんです。けど、それらをコントロール下におけてる人って、自らの王なんですよね。そういう、言ってみれば「個人における肉体的・精神的な独裁的統治が達成されている人」が周囲の人を惹きつけるのは、当たり前のことだなぁという気がします。やっぱり人間誰しも、より優れた者に支配されたい・ひれ伏したいという欲望があるじゃないですか・・・。

これは韓国のアイドルにおいて顕著ですけど、男女問わずスタイル・美肌・小顔とか、作り込まれた不自然なほどの完璧さが求められてますよね。カル群舞もその一つだと思います。そういう圧倒的なものと自分との彼我の差を感じていたいという、ファンのマゾヒスティックな欲望をぶつけられるアイドルは大変だな~と思います。けどそういう支配者の快感って一体どんな感じなんでしょうね?一度体験してみたいわ~~~(無理)

みんなニーチェが好き

 愛から為されることは、常に善悪の彼岸に起こる。(「善悪の彼岸」)

 

善悪の彼岸 (岩波文庫)

善悪の彼岸 (岩波文庫)

 

 

私が一番好きなニーチェアフォリズム(警句)です。深淵〜の次に有名なんじゃないかな?ニーチェの警句は好きなの挙げればキリないくらいいっぱいあって、どれも「こ、心のそんな奥まった裏側に~~~!??」ってところにズブズブグサグサ突き刺さるから、刺激的でたまんないです。

警句といえばニーチェウィトゲンシュタイン(「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」)が有名ですよね。語り得ぬ~は前期ウィトゲンシュタインの思想をよく表わしていて、例えば「フォークの上で天使は何人踊れるか?」という命題に論理的な答えはないですよね。天使ってそんな小さいのとか、天使ってフォークの上で踊るのとか、そもそも天使って何?とか色々定義がはっきりしないことばっかりで、議論の意味がない。形而上の抽象的な命題については判断のしようがないんですよね。沈黙しなければならないっていうのはそういうことですね。

ラディカルで魅力的な警句を生み出せる人は、論理的な思考力に加えて鋭い感性、独特の着眼点、詩的な表現力と備わっていてメチャクチャ羨ましいな・・・どれかひとつでも欲しいよ・・・。

そういえばニーチェ超訳とかいう謎のスタイルで一時期話題になりましたよね。あれってどんな感じなんですかね?ちらっと見たら自己啓発本みたいな感じに編集されてるっぽいですけど、まぁそもそも超訳ってことにしたらなんだってどうにでもなりそうですよね。でもわかりやすさは正義なので、わかりやすくて万人が手に取りやすい思想解説本みたいなのはじゃんじゃん出て欲しいな〜。

 

超訳 ニーチェの言葉

超訳 ニーチェの言葉

 

 

日本人は皆ニーチェが好き(私含め)っていうのは、日本人は皆ショパンが好きっていうのと同じくらいの共通認識だと思うんですけど(多分)、萩原朔太郎が「ニイチェについての雑感」という評論(青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1766_18402.html)でこんなことを書いてました。

 

 アフォリズムは詩である。故にこれを理解し得るものも、また詩人の直覚と神経とを持たねばならない。(…)ニイチェの思想の中には、カント流の「判然明白」が全く無い。それは詩の情操の中に含蓄された暗示であり、象徴であり、余韻である。したがつてニイチェの善き理解者は、学者や思想家の側にすくなくして、いつも却つて詩人や文学者の側に多いのである。

 

哲学+詩的感性〜〜〜〜!!!!そ、そうなんだよな・・・。いやそりゃ好きに決まってますわ・・・。ここで比較されているカントが書く文章はニーチェとは対照的で、ちょっと生硬で愚直な、詩的感性からは程遠い「研究者が書く文」って感じなんですよ。だから両者は理解するのに違った感性を用いる必要があって、カントは学者や思想家寄り、ニーチェは詩人や文学者寄りだ、っていう。

この評論で朔太郎は「ニーチェ、名前は有名だけどホントに理解してる人は少ないよね〜」言うてるけど今も似たようなもんなんだろうな・・・。我々の根深い西洋中心主義の土壌とか、宗教的・思想的感性の違いとかはもうしょうがない歴史だけど、あ〜〜~地球がひとつの国だったらな〜〜〜〜!!!!と思いますねほんと、、、、、、

 

ニーチェは若い頃からずっと、肉体的にも精神的にも病気を抱えて苦しんでいたんですけど、道で主人に激しく鞭打たれる馬車馬を見てその馬に駆け寄り、泣きながらその首を抱きしめた後卒倒して二度と正気に戻らなかった・・・という晩年のエピソードがあるんですよ。これ初めて知ったとき泣いちゃいましたよ・・・孤高で高邁な哲学者が、精神崩壊の間際にこんな子供返りみたいに・・・無邪気な感情をあらわにして・・・痛々しくってたまらない・・・そして何て文学的なんだろう。ドフトエフスキーがこういう話書いてそう。

ていうか調べたら映画になってるんですね!?知らなかった・・・。やっぱりこのエピソードに心の琴線かき鳴らされた人いっぱいいるんだろうな・・・。観てみたい! 


映画『ニーチェの馬』予告編

 

そういえばバンタンとニーチェの関わりもちょいちょいあるんですよね~。ナムジュンも前ニーチェについて言及してましたよね。

 

 

詩的感性の相乗効果・・・最高・・・。

本 8/3

私は今夏休みなので、冷房の効いた部屋で毎日毎日アホみたいに本を読みまくってます。あと映画も観まくってます。最高~!!その中からいくつか・・・。

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

ナムジュンがオススメしてた「これからの『正義』の話をしよう」。

ベンサム功利主義の章でオメラスの話がちょろっと出てくるんですけど、こういう繋がりを発見できると嬉しいですね〜。かなり流行ったから皆読んでるのかもしれないけど、これを読んだナムジュンが誰かに話して、そこからあのストーリーに繋がったのかな・・・?とか考えると(勝手に)嬉しい。

政治哲学は今までノータッチだったんですけど、これは超~初心者の私にも丁度いい易しさでサラッと読めました。私はわりと観念的・内省的な思想が好きで、かつ政治分野に全く興味がない、思想的協調性に欠ける人間なんですけど、政治哲学はやっぱりメチャクチャ現実的・具体的で新鮮でした。象牙の塔に住んでたら絶対にできない分野ですよね。読んでて、特にリベラルな「中立」という立場の弱点にハッと気付かされました。中立って万能じゃないんですよね。右でも左でもない中立は、場合によっては判断の放棄にもなるし、中立という主義・主張にもなる。そりゃ人間同士、完全な合意なんて決して至らないわ・・・。この多元的社会で、利害関係が複雑に絡んだ人間の集団が上手くやっていくには・・・っていうのは、超シビアで答えがないのに黙っていることは許されない非情なテーマなので、抽象的な思弁に嗜好が寄りがちな人もたまにはこういうのを挟むのもいいかもしれないですね・・・。現実社会を生きる生身の思想は武器だってことをビシバシ感じられます。

 

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

 
感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)

感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)

 
知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

 

 

以前読んだこの三部作も、そんな私みたいな初心者にピッタリな易しさで知的好奇心を刺激してくれる本でした。完全に民主的な多数決は存在しないらしいんですよ・・・。嘘だろ・・・?

これはねマジで超~オススメなんですよね。ほんとオススメです。

 

映画の構造分析―ハリウッド映画で学べる現代思想 (文春文庫)

映画の構造分析―ハリウッド映画で学べる現代思想 (文春文庫)

 

 

内田樹の「映画の構造分析―ハリウッド映画で学べる現代思想」。

内田樹の本は何冊か読んでるんですけど、何を読んでも「頭いい人が頭悪い人にもわかりやすく書いた文章〜!!」って感じで読んでてウオ~てなります(頭の悪い感想)。

 

映画「以前」には「これから表現されるべきメッセージ」がまず存在する。主題、象徴、イデオロギー、教訓、風刺、欲望、なんでも構わない。映画作者はそのメッセージを映画を通じて「表現」する。だから、批評家は「映画に表現されたもの」から遡行して、「映画ができる以前にあったもの」、つまり映画の初期条件、映画の「起源」を発見すれば、仕事が終わる、と。記号学の用語を使って言えば、映画記号の「シニフィアン」から出発して、「シニフィエ」へ到達すること、「意味の確定」、それが批評の仕事の本質なのだと。

しかし、映画に「作者」はいるのでしょうか。むしろ「作者なき間テクスト」というロラン・バルトの概念の、映画こそは理想的なモデルであるように私には思われます。

 

バルトの"作者の死"という概念を映画に敷衍した「テクストとしての映画」は、読んでて嬉しくて踊り狂いたくなりましたね・・・。「ゴーストバスターズ」をフロイトのトラウマ・抑圧理論で、「エイリアン」をフェミニズム論で読み解くくだりはちょっと笑っちゃいましたけど、トンデモ理論として一笑するわけにはいかないとこがあって戦慄ですよ・・・フロイトってそういうとこなんですよ・・・。あとヒッチコック作品に出てくる「鳥」は「母なる超自我」の記号らしいです。そうなの?

フロイトとかユングとかの理論は、「こういう解釈もまぁ決して反証されないひとつの仮説・・・」というライトなスタンスで読めるのが気楽でいいんですよね。完全にエンタメ。

切なさ/エモさ

夏の19時頃、まだギリギリ明るい時間に外を歩いてるとき、知らない人んちのお風呂場の窓から漂う石鹸の香りに切なくなる現象ってまだ名前ついてないんですか?完全にジブリ細田守の世界観なんですよね・・・メリットの匂いだと完璧です。

 

「切なさ」という感情に異常な興味と執着を示す私ですが、また微妙に違う「エモさ」っていう表現にも魅力を感じています。ただの若者言葉な言い換えじゃないんですよね・・・。

「切なさ」がじっくり噛みしめ系の、ナイフみたいな鋭い感情だとしたら、「エモさ」はもうちょっとライトな、噛みしめるというより抱きしめる系の…バットで殴るみたいな感情ですね。(?)エモさは切なさよりもカラッとしていて、比較的湿っぽさがない。感情の濃度が薄まって、エンタメとして美味しく頂けるラインが「エモさ」なのかもしれない。「切なさ」には苦しさが沢山含まれてて、つらくなっちゃうときありますから。だから私の中では、2つの大きな違いは感情の濃度ですね。

夏の夕暮れの石鹸の匂いは、幼い頃の郷愁、2度と手に入らない不可逆な過去に対し想起することしかできないもどかしさの感情です。私の場合それに付随する具体的なエピソードがないので、「切ない」というよりは「エモい」止まりですかね。何か切実に昔に戻りたい、やり直したいと思っている人にとっては苦しいほどの「切なさ」になるのかもしれません。ていうかそもそも夏ってだけでなんか心がうずくのに・・・夏のこの特別なエモさ、なんなんですかね?またまとめてブログ書きたい。

 

「切なさ」って汎用性高すぎて定義するの難しいですよね。濃度で区分するくらいじゃ全く足りない。辞書の定義だと「寂しさ・悲しさ・恋しさなどで胸がしめつけられるような気持ち」らしいですけど、嬉しさ寄りの切なさとか悲しさ寄りの切なさとかあるんでしょうかね?濃度が縦軸なら、悲喜が横軸で表現できるかもしれない・・・。恋の切なさなんてもう忘れ去りましたけど、でもこの定義だと「つらさを甘受する気持ち」っていう感じですよね。だって、本当に極度の耐えきれないような切なさは、最終的に悲しみや怒りに自然と変換されてしまう感じがしませんか?切なさはなんていうか、「苦しさからセンチメンタルなもの以外を捨象した感情」なんですよね。つらさを甘受するセンチメンタリズムって、非常にナルシスティックなにおいがしますね・・・。

あらゆる芸術作品から受ける感動って、このナルシスティックな切なさですよね。容赦なく感情を揺さぶる圧倒的なものに対する、悲しみや怒りに変換し切ることのできない曖昧な感情、圧倒的なものに対する憤り、そしてその圧倒的なものに屈服する悦びというか・・・。自ら引き受ける切なさは、自傷行為に近い。

でも切なさを研究するには恋しなきゃわからないことっていっぱいあるんだろうな〜。恋は意図的にできるもんじゃないから受動的な切なさになるんだろうな、だからめっちゃ苦しくて逃れたい気持ちになるんだろうな。あと宗教的な(ヘーゲルが云うとこの『不幸の意識』みたいな)切なさっていうのもありますよね。これは私には一生感じることのできない感情だとは思いますけど、本読んでるとちょいちょいキリスト教関係で理解不能な感情あって、これも「切なさ」なんだろうなと感じる。自分には感じることのできない感情があると知るのってなんだか悔しいな~。