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思想・感情・オタク

皆川博子のすすめ

皆川博子幻想小説界の女王だ。

御年89歳にしていまだ精力的に作品を発表し続ける様子はとても嬉しい反面、いずれ新作を読める日が来なくなるんだなあ・・・とつい考えて悲しくなってしまうのをやめられない。人はいずれ死ぬ・・・推しが生きている喜び・・・。

 

幻想的、かつ緻密な時代設定にのっとったミステリという作風で、幻想小説ファンで知らない方はいないと思う。

しかしこの作家、作品数が多いうえに一作一作がボリューム満点なのでどこから手をつけたらいいのかわからないという方も多いと思う。そんな方のために、まずはこれ!というオススメを5選紹介します。

 

 

1.『蝶』(短篇集/2005年)

 

蝶 (文春文庫)

蝶 (文春文庫)

 

 

インパール戦線から帰還し、虚無を抱えながら北の果てで孤独に生活する男。

戦争で両親を失い、疎まれながら海辺の村で養われる少女。

“私”が疎開先の漁村で出会った少年。

防空壕で密やかなエロスを共有する、奉公先の奥様と“私”。

甘美な死の匂い漂う、人物の狂気と幻想の短篇集。

 

 

 絨毯の模様が浮きだしたかのように、叔父の躰のまわり、叔母の膝のまわりに、紫陽花がばらまかれていた。叔母は右手の鋏で小さい四弁花を切っては、膝の上に仰向いた叔父の眼窩に挿していた。青紫の小花が、叔父の左眼のあるべきところに盛り上がっていた。

綾子叔母はコロラチュラソプラノで歌っていた。「妙に清らの、ああ、わが児よ」

無造作に投げ出されて動かない叔父の足が、青黒かった。

(『妙に清らの』より) 

 

皆川博子は短編もたくさん書いているのですが、多くは雑誌への寄稿のため、単行本としてまとめられはじめたのはわりと最近のことです(最近も続々とまとめられています)。その中でも『蝶』は、いわば「戦争」の短篇集です。全八篇、どれをとっても戦争に端を発する濃厚な“死”のストーリーです。

戦争によって強制的に作り変えられ、歪んだ日常。それはやがて狂気や死という形をとって、様々な終焉を生み出します。目を背けたくなるような残酷で醜悪な現実と、それを受け入れざるを得ない彼らの間の狂おしいせめぎ合い。読んでいて息苦しくなりますが、慣れてくるとやがてその窒息感から彼岸的な官能を感じてしまうようになるはず。

 

『蝶』は、現代文学の砂漠の沖に光輝まれなる孤帆として、美の水脈を一筋曳いてきた皆川博子文学の一頂点といえる短篇集である。

(解説より)

 

 

 

2.倒立する塔の殺人(2007年)

 

倒立する塔の殺人 (PHP文芸文庫)

倒立する塔の殺人 (PHP文芸文庫)

 

  

太平洋戦争終戦直後、空襲で焼けた東京のミッションスクールのチャペルで、一人の女生徒が変死を遂げる。その生徒の死には「倒立する塔の殺人」と題され、女生徒たちの間で回し書きされた小説が絡んでいるらしい。死んだ女生徒に憧れていた三輪小枝は、同級生たちと共に未完の小説の続きを模索する・・・。

 

 聖戦に出陣する学徒の壮行会は、明治神宮外苑の広大な競技場で行われた。大学生は徴兵猶予の特典があったのだけれど、文科にかぎり廃止され、収集されることになったのだ。(略)

わたしは、慧司に恋しているような気持になった。慧司ばかりではない、この、黒く濡れて死と生がひとつに融けあった出陣学徒たちのすべてに、恋していたのかもしれなかった。

異性に恋したのではなく、彼らの悲愴感に、恋したのだ。

 

本書はヤングアダルト向けの叢書の一冊として刊行されました。そのため、皆川博子特有の耽美で退廃的な雰囲気はそのままに、比較的読みやすい作品となっています。

戦時下、空襲に脅かされながら女子挺身隊として過酷な労働を強いられる日々。その中で交わされる少女たちの交流は生々しく、当時を生きた作者自身の記憶もあるのでしょうか。

そして本作は特に古典小説・名画・音楽や詩歌などへの言及が多く、ミッションスクールのお嬢様らしい教養の深さに裏打ちされた、アカデミックな会話が楽しめます。また「S(エス)」と呼ばれる、女学生同士の恋愛とも友情ともつかぬ相手への執着心が怪しいエロスを醸し、ミステリに独特の色を添えています。

ミステリとしても最後のどんでん返しは極上。必ず読み返したくなるはず。

 

 

3.死の泉(1997年)

 

死の泉 (ハヤカワ文庫JA)

死の泉 (ハヤカワ文庫JA)

 

  

舞台は第二次世界大戦下のドイツ。

マルガレーテは私生児を身籠り、ナチの産院「レーベンスボルン(生命の泉)」に身を置く。やがて不老不死を研究し芸術を偏愛する医師クラウスの求婚を承諾するが、激化する戦火のなか、次第にクラウスの言動は狂気を帯びてゆく・・・。

 

 去勢歌手について、クラウスは熱をこめてギュンターに講釈した。(略)

「まさか、そんな非人道的な方法で、ミヒャエルの声を保たせるつもりではありませんよね」

「きみこそ、まさか、ヒューマニズムこそ絶対の正義だなどと口にするつもりではあるまいね。人道主義は、戦線にあっては敗北につながるものだった。戦時の正義は、戦後は悪とされた。しかし、美はいかなる時にあっても、絶対だ。天賦の美は、最大限、最高に生かされるべきなのだ」

 

 これぞまさにゴシック・ホラー!!古城、地下室、芸術、人体実験、カストラート、全編に漂う血と埃の臭い・・・。

ナチス・ドイツ時代の歴史背景が緻密に描写されており、当時の人体実験、人種差別や優生学の認識がいかに残酷な現実を生み出したかをまざまざと見せつけられます。しかし、その「力強いもの」「美しいもの」に対する偏執的な追及がもたらすのは崩壊だけでなく、カストラート変声期以前に去勢される男性歌手)などに代表される人工的で繊細な美です。それらは異常ながらも、異常だからこそ怪しく妖艶な魅力を放ちます。

本書はあるドイツ人作家によって書かれた小説の翻訳・・・という形で書かれた小説内小説というつくり。その入れ子構造を駆使したラストシーンは、最後の一文で衝撃が走ること間違いなしです。

 

 

4.薔薇忌(短篇集/1990年)

 

薔薇忌 (実業之日本社文庫)

薔薇忌 (実業之日本社文庫)

 

 

 美しい腐敗を求め、薔薇の花びらに埋もれて死ぬことを夢見た劇団員の自死

濃密な淫夢に日常を侵される歌舞伎小道具屋の娘。

美しきスター歌手の再起に執念を燃やす芸能プロデューサーと、その哀しき結末。

亡くなった母の箪笥から発見した焼け焦げた飾り櫛と、その桔梗模様に隠された秘密。

芸能に憑りつかれた人々の、妖美で数奇な人生を集めた短篇集。

 

「死刑の一つに、薔薇の葩(はなびら)で窒息させるのがあるって、聞いたことない?」

「薔薇の葩でどうやって窒息させるんですか」

「身動きできないようにして狭い部屋にいれて、天井から薔薇の葩を降らして、葩に埋めて息ができないようにするんだって」(略)

「降り積もらせるうちに、下のほうの、顔に密着した葩は、腐敗して、とろけて、腐汁になると木谷は言ったのよ」

「腐爛の薔薇に包まれて死ぬ光景を、木谷、語ったの」

(表題作『薔薇忌』より)

 

 

『蝶』が戦争の短篇集なら、本作は芸能の短篇集です。

舞台は現代。登場人物は何かしらの舞台芸能に憑りつかれており、「演者の彼岸」と「観客の此岸」は彼らの中で複雑にもつれ合い一体化します。演じるという行為はひとつの虚構を創造する行為ですが、自ら作りだしたものに飲み込まれ現実との境目を喪失してゆく者たちの姿は、どこか哀れで陶酔的です。全編を通して濃密な情念が漂い、むせかえるほどの死の匂いとそれに惹かれる生者の懊悩が狂おしい。

歌舞伎、能、アイドル歌手や舞台俳優など、何かを演じるということに纏わりつく怪しい魅力を感じられる短篇集です。

 

 

5.開かせていただき光栄です(2011年)

  

  

舞台は18世紀ロンドン。解剖学は発展途上で、先端科学であると同時に偏見にも晒された時代。

そんな時代に、私的な解剖教室を開いているダニエル(変人)と、その個性豊かな弟子たち(わりと変人)。彼らが遺骸紛失の事件に巻き込まれる。捜査協力を要請され事件を追うが、そのうちに背後に隠された数奇な事実が発見されてゆく。

 

 めったに手に入らん妊娠六ヶ月……と言いかけたバートンの言葉は、あやややと、わけのわからない音になった。包みがほどけ、剥き出しになった屍骸は、十代半ばの少年であった。服は被せてあるのだが、裸体だ。そうして、両手は肘で両脚は膝の下で切断され、その先はなかった。滲んだ血は乾いて布地をこわばらせていた。

長い沈黙が続いた。

それを破ったのはバートンで、「どうも、包みが小さいと思った」そう言いかけた言葉に、またも、わあわあと喚く弟子たちの声が被さった。バートンの発言は、本来ならエレインの遺骸が包まれていたはずだということを意味する。(略)

貴重な〈妊娠六ヶ月〉が、四肢を絶たれた少年に変化してしまった。

 

 

憂いや哀しみなど、どろりとした情念を帯びた文体・ストーリーが得意な皆川博子ですが、この作品はどちらかというとポップで軽快な印象。

解剖教室の先生と生徒たちが主人公ですが、解剖に関するグロテスクな描写はあまりありません。あくまで科学的な『モノ』としての人間の肉体の描写があるのみです。人間の感情や意識から生じるグロテスクを描くものが多い皆川博子の作品の中で、本作は逆にサッパリしている方かもしれません。読み心地は、小説のはじめに[登場人物一覧]が出ているような海外の探偵小説を読んでいるよう。実際に「本格ミステリ大賞」と「日本ミステリー文学大賞」を受賞しています。

皆川博子作品の中でも珍しく、シリーズものになっており、続編(『アルモニカ・ディアボリカ』)が出ている人気の一作です。

 

 

おわりに

 

皆川博子の作品は、読む者によって好き嫌いがわかれると思います。

残酷、陰惨、奇怪、醜悪、不気味、グロテスク、異常、狂気・・・。作中で起こるひとつひとつの出来事は、そういった印象かもしれません。でもそれらは不思議と、裏側に「美」という輝きを隠し持っている。美醜なんて表裏一体で、その境目ははっきりしないものかもしれない。そう感じさせる作品たちです。

今回ご紹介した作品を読んで「あ、好きかも?」と思われた方は、ぜひ皆川博子ワールドに飛び込んでみてください。めくるめく耽美に溺れましょう!!

妄想/現実、オンライン/オフライン

serial experiments lain」というアニメが好きだ。

(ゲームも同時展開されてるけど、ストーリーも違うし、今はプレミアが付いて高値で取引されている・・・。20th記念とかで復刻してくれ~~)

 

 

エヴァと同時代の深夜アニメ。エヴァフロイト的なモティーフを多用しているのに対し、レインはユング的なモティーフを元にしている(と思う)。

主人公「レイン」の正体は、(ネタバレだけど)攻殻機動隊における「人形遣い」をユング的に解釈したような存在です。あ~自分ホントこういうテーマ好きだよな・・・って呆れるくらいわかりやすい。ダークでサイバーな世界観、ホラーな雰囲気に意味深長なアフォリズム、昔のアニメのレトロな絵柄・・・。

全13話なので一気見するのにちょうどいいです。エヴァ攻殻機動隊AKIRA今敏作品(特にパーフェクト・ブルー)辺りが好きな人にとってもオススメ。

ちょっとニッチだと思うんだけどAmazonプライムにあるのすごいと思う。この調子でNoirもアマプラ化してほしいな~。

 

There's no way we're gonna find a PC in Shimane!(島根にパソコンなんてあるわけないじゃん) - 葦の中elevenmile.hatenablog.com

 

似たようなテーマで、最近読んでなるほど~と思った記事。この方のブログが好きでよく読んでいるんだけど、頭いい人の文章はわかりやすいな〜。あとテーマが毎回90年代生まれに刺さる。

 

仮想現実のメタフィジックス

仮想現実のメタフィジックス

 

 

去年の夏あたりから読んでは止め、読んでは止めしていた本。

20年以上前の本だけど、基本的な論旨は「インターネットが人間と社会に与える影響を、古来からの哲学におけるテーマと共に考える」的な感じだからわりと古さは感じなかった。ハイデッガー存在論とかプラトンのエロス論とかを引っ張ってきながら現代(といっても1995年だけど)のインターネットの影響を論じる。

 

 われわれとコンピュータ、コンピュータ・グラフィックス、コンピュータ・ネットワークとの情事は、審美的魅惑や、遊戯感覚よりも、おそらくは根深いところで進んでいる。私たちは、心や感情が帰るねぐらを探しているのだ。(略)コンピュータの持つ誘因は、打算的、審美的なものを超えた、エロス的なものなのだ。われわれとコンピュータとの関係は、おもちゃや娯楽を使った表面的な気晴らしではなく、この両者が共生関係に入り、いずれは精神的に人間とテクノロジーが「結婚」するに至ると宣言されるのである。電脳空間内の大気は、かつては「叡智」を包んでいたような匂いを持っており、このことは正しく知覚されている。純粋な情報として提示された世界は、われわれの目や精神だけでなく、心までも魅惑してしまう。自分が強くなったと感じる。機械の中で心が脈動する。これがエロスだ。

  

まじでサイコ~~~ですね。サイバーパンク好きな人は楽しく読めると思います。出版は1995年なので大体エヴァ攻殻lainが放送されてた頃ですね。正月休みに攻殻アニメを観直したのでタイムリーでした。

2019年は、攻殻の世界だと電脳化が一般的に普及しはじめているんですよね。あとAKIRAの年。エヴァだと2016年にはもう人類補完されちゃってるし・・・。時代はエヴァ攻殻AKIRAも置いてくけど、でも確実にそれらの世界に近づいているという体感がありますね。タチコマちゃんがリアリティを持ち始めているのがとても嬉しい。タチコマちゃん可愛い!タチコマちゃん可愛い!

 

tachikoma.cerevo.com

少年

映画をよく観るようになったのはここ数年です。初心者なので、とりあえず有名な作品を片っ端から観ている。濫読ならぬ濫観(?)という感じ。

映画を観るとき俳優に全く興味を持たないタイプなんですけど、まぁやっぱりエドワード・ファーロングブラッド・レンフロには興味を刺激されました(最近初めて「ターミネーター2」と「マイフレンド・フォーエバー」「依頼人」を観た)。これ好きなやつでしょ・・・と自分でも大体予想はついてたんですけど、やっぱり好きでした。

この3作において2人が演じるキャラクターに共通してるのが、ガサツでワルっぽいけどしっかり者のいいヤツってとこ。これが本当に良かった。整いすぎて少年なんだか少女なんだかわかんない中性的な顔面のくせに、中身は生意気なクソガキってところが最高だ・・・。

かつて古代ギリシアにおいては男性性と女性性を併せ持つことが至上とされ、敢えてどちらにも見えるような姿で彫刻が彫られたという話を聞いたことがありますけど、やっぱり両性を併せ持つというのはひとつの美の完全究極形なんですね~。両性を併せ持つからこそ、どちらの性も感じないっていうのもあるのかも。アンドロギュノスの神話も不気味ながらとってもロマンティックだし、この世ならぬ静かな魅力を感じます。

それにしても、成長した姿を検索してガッカリしつつ、いやこれでいい・・・これだからいい・・・という気持ちになりますね・・・。成長途中の一瞬の神秘が映像として後世に残ることに感謝です。永遠じゃないから美しい、刹那的であればあるほど価値がある、っていう考え方はあんま好きじゃないんですけど。なんか負け惜しみって感じがするし。あと若さへの隷従、処女性の崇拝というのとも繋がってる感じします。しかし悔しいけれど「限定」っていうのに弱いのはもうどうしようもないんです(コスメとか・・・)。

映画でのいわゆる”少年性”というテーマに関しては、「ベニスに死す」のビョルン・アンドレセンや「御法度」の松田龍平などに表現された”死・性・陰鬱・妖艶・狂気”といったイメージが強いです(少女性も「ロリータ」「小さな悪の華」「ヴィオレッタ」とかのそういう暗いイメージが多いかも)。でもそれよりも、「マイフレンド・フォーエバー」や「スタンド・バイ・ミー」みたいな、一般的に友情物語として括られる作品の方が好きだなぁ。最後に残る切なくて苦い感情は、感覚的には「友情物語」っていうだけではもの足りないですけど。前者が陰の少年性なら、後者は陽の少年性。エロスとタナトスに絡めとられる少年たちよりも、フィリアで繋がれた少年たちの感情がきらめく物語が好きだな、と改めて思いました。死を扱ってなお爽やかさが勝る作品っていいですよね・・・。おすすめの作品があったら是非教えてほしいです。

正月休み

9連休。さすがに時間を持て余して、ジョジョ5部を観るためにNetflixに登録した。ついでに攻殻機動隊TVシリーズも観返している。何度見てもボロ泣きしてしまう「さよなら、バトーさん」。

アニメはまとめて観る派だけど、ジョジョは毎回我慢できなくていつも放映期間中に追いついてしまう。一昨年の正月休みには4部を一気に観た(もちろんスゲーッ爽やかな気分になった、新しいパンツをはいたばかりの正月元旦の朝のように)。

ジョジョはどの部を観ても、プラスの感情だけを活性化してくれる。もちろん原作の漫画を読んだときもそうだけど、アニメはもっとスゴい。目から耳からグワッとエネルギーが流れ込み、全身に栄養がいきわたるような、根拠のない希望が自分の中できらめきはじめるような、そういうサワヤカな気持ちになる。ジョジョを観ているときの私は、いつもの意地悪でひねくれて暗くていじけた私じゃないと感じる。やっぱり少年漫画はすごい。

でも4部から一転して、5部は今からつらいな・・・考えるだけでもツラい。なのでなるべく考えない、特にナランチャのことは・・・。

5部で一番好きなのはミスタなんだけど、声優が発表されたとき、ちょっとえぇ~?と思った(もっとガサツでワキガっぽい(?)声のイメージだった)。けど観てたらなんだかんだ馴染んできました。うーんでもやっぱ赤羽根健治さんの方が好きかなぁ・・・

そういえば、9月にジョジョ展に行った。

あんなに出かけるのが嫌いなのに、なぜ行こうと思ったのかわからない。三連休の最終日に行ったのでもちろん超混んでたし、グッズも売り切ればっかりだったし、そもそも電車に乗るの嫌いだし、暑いし・・・。でも、こういう風に何かに欲望を向けることができて幸せだと思った。なぜならここ数年、欲望を抱くことを抑圧する癖が高じて、そもそも初めから何かを欲そうとしなくなってきているから。常に受け身で、楽しくなくていいからとにかく少しでも苦痛を減らすことしか考えていない。こんなんで生きてて楽しいのか・・・?いや全く楽しくはないが、まぁこんなもんだろう、と思って生きていく私に、ジョルノはゴールドエクスペリエンスで生命を吹き込んでくれるのである・・・。

29歳11ヶ月30日で死ぬ

今年ももうすぐ終わるけど、今年何したかな・・・。親知らず抜いたことしか覚えてない。

去年あけたボディピアスが安定してきて、時が経つのを実感する。

特に人とも会わず遊びにも行かず、ひたすら寝てひたすら映画を観た一年だった。

とにかく起きているのがだるい。1日に12時間眠る。休みの日に遊びに出かけるのが困難になった。何度ドタキャンしたかわからない。本当にごめんなさい。

人と会うのは億劫なのに、人と会わなくては、という焦燥感につねに苛まれている。誰だって、自己を保つには他者の視線と意識に依存する。そろそろ人のカタチでなくなるかもしれない。

身体の内側から外側からパリパリに乾燥してゆく感じだ。働かなくちゃ人権はないけど、働いたって同じようなもんだと思った。これは自意識の問題なので、筋トレをするしかないと最近思い始めた。筋トレしてる人独特の意識ののめり込み、謎の自信、あれを身に付けるしかない、心を無にするんだ・・・。

20代に終わりがあるなんて思っていなかった。

30代だって終わるし、40代だって終わるなんて信じられない。

若さという無条件の価値を失うのが怖い。私はまだ何者にもなれていないからだ。

何者かになるのは、結構難しい。それは私にとって、やりがいのある仕事に就くことでも、結婚することでも、趣味を極めることでもない。だから、より難しい。

自分を価値ある人間と思うにはそれが手っ取り早いのに、そもそもそういう欲望を抱くことができなかった人間はどうすればいいのだろう。

「言語化」の難しさ

哲学の面白いとこは、誰しも一度は考えたことがあるようなシンプルな疑問を徹底的につき詰めて考えるとこなんですよね。だから色々読んでると、あっこれ私も昔考えたなぁ〜ってことがちょいちょいある。えらい哲学者たちも普通な私たちも、基本的なアイディアは人類みんな一緒なんだなぁと感動します。

 

与えられた感覚・感情等を言語化することの難しさについては、古今東西のすごい哲学者たちもうんうん頭ひねって色々考えてるんですけど、それって私達が本読んだり音楽聴いたりしてア〜エモいよ〜〜言語化したいよ〜〜ってのたうち回るのと同じと言っても過言ではないんですよね(過言)だってこれとか、言語化したいオタクが思うことそのものじゃないですか?

 

(表現が)厳密さを欠くのは、通常、一つの事物を広すぎる類の中にふくませるからであり、しかも、事物や類といったものが、既成の言葉に応じているからである。けれども、まず既成概念をはなれ、事象的なものの直接的な視覚をもったうえで、その事象の分節を念頭において細分するとすれば、表現のために作るべき新しい概念は、今度こそ、その対象の寸法にぴたりと合わせて仕立てられるわけである。(ベルクソン「哲学の方法」)

 

ベルクソン全然詳しくないんであれですけど、事象にぴたりと合わせて新しい概念を仕立てるっていうのは、端的には新しい表現を生むってことだと思いますけど、これがメチャクチャ難しいんですよね・・・。そういう意味だと詩人はそのスペシャリストですよね。私も詩を読むの好きなんですけど詩人はホントすごい。どっからそういう発想が出てくるんだっていうような、予想外の、文脈から外れるギリギリの言葉の組み合わせでも、何故かしっくりくる新しく豊かな世界を構築する能力・・・。これについては、ロシア・フォルマリズムという運動が詳しく掘り下げてます。

 

1910年代半ばから1920年代のロシア(ソ連)の文学批評の一派を指す。(…)作品の文学性を言語の詩的機能や、事物の再認識である異化作用という面から特徴づけ、芸術における手法を重視し、素材を手法の動機付けとして見た。(百科事典マイペディア『ロシア・フォルマリズム』)

 

あとLINEスタンプってこの「対象の寸法にぴたりと合った表現をしたい」っていう欲望に忠実に対応してますよね。例えば「了解」って伝えるにも、今のこの「了解」って気持ちにピッタリ当てはまる「了解」を表して伝えたいから、色んな「了解」の中でハム太郎の「了解」を使ったりゴルゴ13の「了解」を使ったりするわけで。LINE使い始めた頃は「こんなん誰が買うん?」と思ってたけど、200円ちょい払えば使いたい表現使えるんだからそら買いますわ・・・。しかし最初に「これは売れる!!」て思ってLINEスタンプ開発始めた人は本当にすごいと思う。

 

あとこれは、えらい哲学者が「こ、この感覚・・・これはどうやって記述すればいいんだ・・・!?」と悩んでいる様子です。専門用語みたいなのは、適当に字面から想像する感じで読み流してください・・・。

 

現象学的記述において、原的所与に対して漠然として流動的な記述を施すのは)単一の意義をそなえた用語のみでは、ほかの多くの直観的所与への適応力を欠いてしまうからだ、と彼はいう。つまり、素朴な直観からそのままとりだされた本質を記述するような認識次元では、こうした表現こそがただひとつ正当なものであり、それがやがて類的本質のさよざまな読みとりや、意識分析の進歩にともなって、しだいに細かく区別されてゆくのである。(p.21)

 

20世紀言語学入門 (講談社現代新書)

20世紀言語学入門 (講談社現代新書)

 

 

この「彼」というのはフッサールのことです。フッサール現象学という分野を確立したのですが、彼の場合はその学を通してだんだんピッタリの表現が出来るようになると考えてたみたいですね。

 

また、フッサールが「一般の言語使用にみられる多義性には、たえず慎重な注意が必要であるとともに、以前のかかわりで決められた事柄が新しいかかわりのなかでも本当に同じ意味で適用されているかどうか、たびかさなる再吟味も必要だ」と注意をうながしながら、どこまでも記述に日常言語を使用するよう説いているのだとすれば、これはやはり、ベルクソンと同様、「既成の言語」を疑い「対象の寸法に合った概念」をもとめ続けてゆく、無限にくり返される彼の基本姿勢の表明でしかないのである。(p.21)

 

「既成の言語」「常識の言語」に満足せず、もっとピッタリの表現があるはずだ!それを求め続けるぞ!!という意思・・・うーん、言語化に苦しむ我々オタクと一緒ですね(過言)

ちなみにこの本は、言語学史の方法論的解説がほとんどなので、引用が気になった方は直接ベルクソンフッサールを当たった方がいいです。

 

 

 ~~~~~まとめ~~~~~

人類滅亡の快楽

遅まきながら「シン・ゴジラ」を観て(アマプラで配信開始した)、エヴァ好きとしては庵野さんさすが〜と思いながらこれを思い出した。 

 

 

エヴァもシンゴジも同じく「人類が危機に晒される快楽」を強く感じたな〜。庵野さんの趣味か?エヴァだと人類は補完されて意識の個別性と肉体を失うし、シンゴジだと「大量の人型ゴジラが世界に拡散される」可能性を示唆して終わる。ラストで不穏な余韻を残す映画、メチャクチャ好み・・・。

それと比べると、ハリウッド映画でよくある「地球は俺が救うぜ!」的なやつ(「アルマゲドン」とか「12モンキーズ」みたいな)は「(全体的・抽象的な)人類滅亡しそう」が強力な後景になってて、実存的人間の個人的・具体的な生を効果的に前景化する強制的ハッピーエンドシステムになっている。多少(わりと多い)の人死にはハッピーエンドに陰を落とさない辺り、ハリウッドはこまけぇこたぁ気にしないですね(日本映画だとそうはいかない気がする)。それはそれで良いんですけど、やっぱり私は最後の最後に不穏なワンシーンを持ってきて「もしかしたら・・・」と思わせてくれるような映画が好きです。まぁでも一番好きな人類滅亡映画は「博士の異常な愛情」なんですけどね。アルマゲドンでハウンドが「観た?」って言ってましたね。映画って完全に神の視点なので、ハッピーもアンハッピーも似たようなもんだよな・・・と思います。

「人類滅亡」というディストピアはひとつの理想なんだな、と改めて考えると不思議ですよね・・・まぁでもほんとに滅亡したら私だっていないわけだし、そんなに恐ろしいことではない。一番恐ろしいのは「ゼロ・グラビティ」とか「月に捕らわれた男」みたいなやつですよ・・・マジで・・・宇宙は・・・怖い・・・・・・

 

ベンヤミンは興味あるし読みたいんですけど、文章が難解でなかなかとっつきにくい。なのでこういうbotでエッセンスだけ楽しめるのはありがたいですね。「芸術の政治化」って何だ?気になる。

ファシズムの歴史の「何故そうなったか?」という過程にはとても興味があって、それに社会学・心理学的な説明を施す本は読むんですけど(フロム「自由からの逃走」とか)、どうしても具体的な惨状は知りたくないという気持ちがあって・・・。戦争映画が大嫌いなので・・・。戦争映画は神の視点じゃなくて、人間としての現実的な視点なのでキツい。そういう理由で観られてない映画いっぱいある。観る覚悟ができる日は来るのか・・・。