gomibako

思想・感情・オタク

みんなニーチェが好き

 愛から為されることは、常に善悪の彼岸に起こる。(「善悪の彼岸」)

 

善悪の彼岸 (岩波文庫)

善悪の彼岸 (岩波文庫)

 

 

私が一番好きなニーチェアフォリズム(警句)です。深淵〜の次に有名なんじゃないかな?ニーチェの警句は好きなの挙げればキリないくらいいっぱいあって、どれも「こ、心のそんな奥まった裏側に~~~!??」ってところにズブズブグサグサ突き刺さるから、刺激的でたまんないです。

警句といえばニーチェウィトゲンシュタイン(「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」)が有名ですよね。語り得ぬ~は前期ウィトゲンシュタインの思想をよく表わしていて、例えば「フォークの上で天使は何人踊れるか?」という命題に論理的な答えはないですよね。天使ってそんな小さいのとか、天使ってフォークの上で踊るのとか、そもそも天使って何?とか色々定義がはっきりしないことばっかりで、議論の意味がない。形而上の抽象的な命題については判断のしようがないんですよね。沈黙しなければならないっていうのはそういうことですね。

ラディカルで魅力的な警句を生み出せる人は、論理的な思考力に加えて鋭い感性、独特の着眼点、詩的な表現力と備わっていてメチャクチャ羨ましいな・・・どれかひとつでも欲しいよ・・・。

そういえばニーチェ超訳とかいう謎のスタイルで一時期話題になりましたよね。あれってどんな感じなんですかね?ちらっと見たら自己啓発本みたいな感じに編集されてるっぽいですけど、まぁそもそも超訳ってことにしたらなんだってどうにでもなりそうですよね。でもわかりやすさは正義なので、わかりやすくて万人が手に取りやすい思想解説本みたいなのはじゃんじゃん出て欲しいな〜。

 

超訳 ニーチェの言葉

超訳 ニーチェの言葉

 

 

日本人は皆ニーチェが好き(私含め)っていうのは、日本人は皆ショパンが好きっていうのと同じくらいの共通認識だと思うんですけど(多分)、萩原朔太郎が「ニイチェについての雑感」という評論(青空文庫https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1766_18402.html)でこんなことを書いてました。

 

 アフォリズムは詩である。故にこれを理解し得るものも、また詩人の直覚と神経とを持たねばならない。(…)ニイチェの思想の中には、カント流の「判然明白」が全く無い。それは詩の情操の中に含蓄された暗示であり、象徴であり、余韻である。したがつてニイチェの善き理解者は、学者や思想家の側にすくなくして、いつも却つて詩人や文学者の側に多いのである。

 

哲学+詩的感性〜〜〜〜!!!!そ、そうなんだよな・・・。いやそりゃ好きに決まってますわ・・・。ここで比較されているカントが書く文章はニーチェとは対照的で、ちょっと生硬で愚直な、詩的感性からは程遠い「研究者が書く文」って感じなんですよ。だから両者は理解するのに違った感性を用いる必要があって、カントは学者や思想家寄り、ニーチェは詩人や文学者寄りだ、っていう。

この評論で朔太郎は「ニーチェ、名前は有名だけどホントに理解してる人は少ないよね〜」言うてるけど今も似たようなもんなんだろうな・・・。我々の根深い西洋中心主義の土壌とか、宗教的・思想的感性の違いとかはもうしょうがない歴史だけど、あ〜〜~地球がひとつの国だったらな〜〜〜〜!!!!と思いますねほんと、、、、、、

 

ニーチェは若い頃からずっと、肉体的にも精神的にも病気を抱えて苦しんでいたんですけど、道で主人に激しく鞭打たれる馬車馬を見てその馬に駆け寄り、泣きながらその首を抱きしめた後卒倒して二度と正気に戻らなかった・・・という晩年のエピソードがあるんですよ。これ初めて知ったとき泣いちゃいましたよ・・・孤高で高邁な哲学者が、精神崩壊の間際にこんな子供返りみたいに・・・無邪気な感情をあらわにして・・・痛々しくってたまらない・・・そして何て文学的なんだろう。ドフトエフスキーがこういう話書いてそう。

ていうか調べたら映画になってるんですね!?知らなかった・・・。やっぱりこのエピソードに心の琴線かき鳴らされた人いっぱいいるんだろうな・・・。観てみたい! 


映画『ニーチェの馬』予告編

 

そういえばバンタンとニーチェの関わりもちょいちょいあるんですよね~。ナムジュンも前ニーチェについて言及してましたよね。

 

 

詩的感性の相乗効果・・・最高・・・。

本 8/3

私は今夏休みなので、冷房の効いた部屋で毎日毎日アホみたいに本を読みまくってます。あと映画も観まくってます。最高~!!その中からいくつか・・・。

 

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

 

 

ナムジュンがオススメしてた「これからの『正義』の話をしよう」。

ベンサム功利主義の章でオメラスの話がちょろっと出てくるんですけど、こういう繋がりを発見できると嬉しいですね〜。かなり流行ったから皆読んでるのかもしれないけど、これを読んだナムジュンが誰かに話して、そこからあのストーリーに繋がったのかな・・・?とか考えると(勝手に)嬉しい。

政治哲学は今までノータッチだったんですけど、これは超~初心者の私にも丁度いい易しさでサラッと読めました。私はわりと観念的・内省的な思想が好きで、かつ政治分野に全く興味がない、思想的協調性に欠ける人間なんですけど、政治哲学はやっぱりメチャクチャ現実的・具体的で新鮮でした。象牙の塔に住んでたら絶対にできない分野ですよね。読んでて、特にリベラルな「中立」という立場の弱点にハッと気付かされました。中立って万能じゃないんですよね。右でも左でもない中立は、場合によっては判断の放棄にもなるし、中立という主義・主張にもなる。そりゃ人間同士、完全な合意なんて決して至らないわ・・・。この多元的社会で、利害関係が複雑に絡んだ人間の集団が上手くやっていくには・・・っていうのは、超シビアで答えがないのに黙っていることは許されない非情なテーマなので、抽象的な思弁に嗜好が寄りがちな人もたまにはこういうのを挟むのもいいかもしれないですね・・・。現実社会を生きる生身の思想は武器だってことをビシバシ感じられます。

 

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性 (講談社現代新書)

 
感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)

感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)

 
知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

知性の限界――不可測性・不確実性・不可知性 (講談社現代新書)

 

 

以前読んだこの三部作も、そんな私みたいな初心者にピッタリな易しさで知的好奇心を刺激してくれる本でした。完全に民主的な多数決は存在しないらしいんですよ・・・。嘘だろ・・・?

これはねマジで超~オススメなんですよね。ほんとオススメです。

 

映画の構造分析―ハリウッド映画で学べる現代思想 (文春文庫)

映画の構造分析―ハリウッド映画で学べる現代思想 (文春文庫)

 

 

内田樹の「映画の構造分析―ハリウッド映画で学べる現代思想」。

内田樹の本は何冊か読んでるんですけど、何を読んでも「頭いい人が頭悪い人にもわかりやすく書いた文章〜!!」って感じで読んでてウオ~てなります(頭の悪い感想)。

 

映画「以前」には「これから表現されるべきメッセージ」がまず存在する。主題、象徴、イデオロギー、教訓、風刺、欲望、なんでも構わない。映画作者はそのメッセージを映画を通じて「表現」する。だから、批評家は「映画に表現されたもの」から遡行して、「映画ができる以前にあったもの」、つまり映画の初期条件、映画の「起源」を発見すれば、仕事が終わる、と。記号学の用語を使って言えば、映画記号の「シニフィアン」から出発して、「シニフィエ」へ到達すること、「意味の確定」、それが批評の仕事の本質なのだと。

しかし、映画に「作者」はいるのでしょうか。むしろ「作者なき間テクスト」というロラン・バルトの概念の、映画こそは理想的なモデルであるように私には思われます。

 

バルトの"作者の死"という概念を映画に敷衍した「テクストとしての映画」は、読んでて嬉しくて踊り狂いたくなりましたね・・・。「ゴーストバスターズ」をフロイトのトラウマ・抑圧理論で、「エイリアン」をフェミニズム論で読み解くくだりはちょっと笑っちゃいましたけど、トンデモ理論として一笑するわけにはいかないとこがあって戦慄ですよ・・・フロイトってそういうとこなんですよ・・・。あとヒッチコック作品に出てくる「鳥」は「母なる超自我」の記号らしいです。そうなの?

フロイトとかユングとかの理論は、「こういう解釈もまぁ決して反証されないひとつの仮説・・・」というライトなスタンスで読めるのが気楽でいいんですよね。完全にエンタメ。

切なさ/エモさ

夏の19時頃、まだギリギリ明るい時間に外を歩いてるとき、知らない人んちのお風呂場の窓から漂う石鹸の香りに切なくなる現象ってまだ名前ついてないんですか?完全にジブリ細田守の世界観なんですよね・・・メリットの匂いだと完璧です。

 

「切なさ」という感情に異常な興味と執着を示す私ですが、また微妙に違う「エモさ」っていう表現にも魅力を感じています。ただの若者言葉な言い換えじゃないんですよね・・・。

「切なさ」がじっくり噛みしめ系の、ナイフみたいな鋭い感情だとしたら、「エモさ」はもうちょっとライトな、噛みしめるというより抱きしめる系の…バットで殴るみたいな感情ですね。(?)エモさは切なさよりもカラッとしていて、比較的湿っぽさがない。感情の濃度が薄まって、エンタメとして美味しく頂けるラインが「エモさ」なのかもしれない。「切なさ」には苦しさが沢山含まれてて、つらくなっちゃうときありますから。だから私の中では、2つの大きな違いは感情の濃度ですね。

夏の夕暮れの石鹸の匂いは、幼い頃の郷愁、2度と手に入らない不可逆な過去に対し想起することしかできないもどかしさの感情です。私の場合それに付随する具体的なエピソードがないので、「切ない」というよりは「エモい」止まりですかね。何か切実に昔に戻りたい、やり直したいと思っている人にとっては苦しいほどの「切なさ」になるのかもしれません。ていうかそもそも夏ってだけでなんか心がうずくのに・・・夏のこの特別なエモさ、なんなんですかね?またまとめてブログ書きたい。

 

「切なさ」って汎用性高すぎて定義するの難しいですよね。濃度で区分するくらいじゃ全く足りない。辞書の定義だと「寂しさ・悲しさ・恋しさなどで胸がしめつけられるような気持ち」らしいですけど、嬉しさ寄りの切なさとか悲しさ寄りの切なさとかあるんでしょうかね?濃度が縦軸なら、悲喜が横軸で表現できるかもしれない・・・。恋の切なさなんてもう忘れ去りましたけど、でもこの定義だと「つらさを甘受する気持ち」っていう感じですよね。だって、本当に極度の耐えきれないような切なさは、最終的に悲しみや怒りに自然と変換されてしまう感じがしませんか?切なさはなんていうか、「苦しさからセンチメンタルなもの以外を捨象した感情」なんですよね。つらさを甘受するセンチメンタリズムって、非常にナルシスティックなにおいがしますね・・・。

あらゆる芸術作品から受ける感動って、このナルシスティックな切なさですよね。容赦なく感情を揺さぶる圧倒的なものに対する、悲しみや怒りに変換し切ることのできない曖昧な感情、圧倒的なものに対する憤り、そしてその圧倒的なものに屈服する悦びというか・・・。自ら引き受ける切なさは、自傷行為に近い。

でも切なさを研究するには恋しなきゃわからないことっていっぱいあるんだろうな〜。恋は意図的にできるもんじゃないから受動的な切なさになるんだろうな、だからめっちゃ苦しくて逃れたい気持ちになるんだろうな。あと宗教的な(ヘーゲルが云うとこの『不幸の意識』みたいな)切なさっていうのもありますよね。これは私には一生感じることのできない感情だとは思いますけど、本読んでるとちょいちょいキリスト教関係で理解不能な感情あって、これも「切なさ」なんだろうなと感じる。自分には感じることのできない感情があると知るのってなんだか悔しいな~。

リウマチの天使スケリグ

「肩胛骨は翼のなごり」/デイヴィッド・アーモンド

 

肩胛骨は翼のなごり (創元推理文庫)

肩胛骨は翼のなごり (創元推理文庫)

 

 

 

「ねえ、肩胛骨って、なんのためにあるの?」ぼくは訊いた。

「まあ、マイケル!」かあさんはいらだったように、ぼくを押しのけて通った。だけど、階段を途中まで降りたところで足を止め、またもどってきた。

そしてぼくの肩胛骨に沿って指を走らせた。

「肩胛骨は、人間が天使だったときの翼のなごりだといわれてる。いつかある日、またここから翼が生えてくるって」

「だって、それ、ただのお話でしょ。ちいちゃい子ども向けのおとぎ噺。そうでしょ?」

「さあね、それはどうかしら?かつて、あたしたちはみんな、翼を持ってたのかもしれない。そして、いつかある日、また、翼を持てるかもしれない」

 

星の王子さま」に次いで、私のバイブルになった児童書です(こういう小学校高学年向けくらいの児童書は、グッとくるものが多い気がする)。

原題は邦題と違って、"SKELLIG"、登場する謎の男の名前です。それを「肩胛骨は翼のなごり」にしたの、ホント天才だと思う。少なくとも私の中では、肩胛骨という単語にまつわるストーリーはこれしか浮かばない。肩胛骨って結構ニッチな部位だよね…?

 

主人公マイケルが、引っ越し先にある朽ち果てて今にも崩壊しそうなガレージの奥で、翼を持つ謎の男を発見するところからストーリーは始まる。

この謎の生き物スケリグの素敵なところは、汚さと美しさ、現実感と非現実感が絶妙なバランスで入り混じっているところ。

スケリグは、登場してすぐの頃ほど汚さや生々しさが際立つ書かれ方をしている。老人みたいな見た目で、みすぼらしく、埃まみれで汚くて、無愛想で、病気で苦痛にうめき、食べているものといったら虫や鼠。ペレット(猛禽類が骨や羽など消化できないものを吐き出した塊)を吐いたり、フクロウに餌を運んでもらってる描写があるあたり、鳥獣の擬人化に近いものなのかな…?と思わせる(隣に住んでいる女の子ミナが、進化論に触れて「(猿ではなく)もう少し美しいご先祖さまもいたらいいなと思う」と言ってるから、始祖鳥から進化した鳥人とかの可能性も匂わせる)。けれども、着ているスーツの下に固く折り畳まれた病んだ翼、それが露わになる描写ひとつで、あ、やっぱり天使かもしれない、と思わせるから不思議だ。折り畳まれこわばった翼がゆっくりとほどける瞬間、彼の生々しさは人間や動物と同じ「生き物」として、「生きた天使」の不思議な親近感と親愛の情で読者を包み込む。

スケリグは最後まで、自分が何者か断言することはない。

 

「あなたはなに?」

スケリグはまた肩をすくめた。

「なにか、だよ。きみみたいな、獣みたいな、鳥みたいな、天使みたいな、なにか」

彼は笑った。「そういうなにか、だな」

 

天使っていうのがそもそも比喩的な表現ではあるけど、翼がある/ないっていう表現は、色々な物事の比喩として捉えることができますよね。可能/不可能とか、非現実/現実とか、過去/未来(前世や死後という意味で)とか、無垢/老獪とか。そういう様々なものを投影できるから、大人が読んでもグッとくるんでしょうね…。想像力を思いっきり働かせる余地が作られているというか。

そういったファンタジックな要素だけでなく、現実の人間関係、特に家族関係も緊密に描かれている部分が泣けました。マイケルには、産まれたばかりの病弱な妹がいます。入退院を繰り返す赤ちゃんに不安を抱える家族。ラスト近くで、その妹とスケリグの一瞬の邂逅があるのですが、そこで見事に全てが噛み合うので感動してしまいます。安堵と切なさとぬくもり、そして「生きるっていうのは手段じゃない、大きな目的なんだなあ…」と私らしくもないことを考えてしまったりしました。

 

スケリグは「星の王子さま」の王子さまと同じように、最後は主人公達の元から去ってしまうんですよね。墜落した天使が、人間の愛情に癒され力を取り戻し、天に帰っていく。うーんやっぱり星の王子さまとプロット似てます。人の形をした人ならざる儚いもの、っていうテーマが私のツボだとわかりましたので、映画でも小説でもおススメがありましたら教えてください。AIと人間みたいなやつも好きです。

 

読もうと思った理由はこれf:id:nam_ami_dabutz:20180712103952p:image

blood,sweat&tearsのPVのテテ。

こんなん思い出さないわけにはいかないでしょ、、、

そして、私が大好きなAwakeの歌詞。

 

Maybe I, I can never fly
あの花びらのように 翼が付いたように舞うこともできない

Maybe I, I can't touch the sky
それでも手を伸ばしていたい

走ってみたいんだ もう少し

 

私が好きなもの、わかりやすすぎるな〜

未だ何者にもなれない私へ

サブカルクソ女として恥じることない半生を送ってきました。それ以上のものには、未だなれていません。

数年前に大学を辞めたときから、方向感覚を失ったまま生きています。自分が何歳かもちょっとよく…わかりません!!

20歳のときメンタルをぶっ壊して大学を休学、入院しました。私の通っていた大学の休学は最長4年間なので、4年まるまる休学。その間はたくさん絵を描いたり、映画やアニメを観たり、本や漫画を読んだり麻雀打ったりピアノやギター弾いたり…。雀荘や探偵社やスナックでアルバイトをしたりもしました。知人と会うのはなんか怖くて、ほとんど連絡もとらず、ずっとひきこもってました。それなのに今も変わらず仲良くしてくれている友人達、なんて心が広いんだろうか~~~~ありがとう~~~~!!!!!!

私が通っていた某大学は、良い意味でバラエティ豊か、悪い意味で言えば優等生と劣等生の格差が激しいという印象でした(もちろん私は劣等生の方です…)。

成績優秀で留学に行ったりとかもして、サークルもバイトもしっかりやって、ばっちり就活キメてきちんと4年で卒業する超人もいれば、サークルやってるだけで留年して5年生6年生とかいう人もフツーにいる。まず他の大学よりも留年する人の割合が圧倒的に高いし、途中で大学に来なくなる人もメチャクチャ多い。しまいには「中退して一人前」とかいう(もちろん冗談ですが)。

私は文学部の哲学コースに在籍していたのですが、そこの人達はより一層クセがすごかった。天才から本物のバカまでそろい踏みって感じだった。私はその中でバカにもなれない劣等生だった。学部学科の先輩で、トリプルファイヤーというバンドの吉田さんという方がいるのですが、なんかもう象徴的で…。こういう人が、本物のバカの部類です(褒めてる)。こういう大学で数年過ごした悪影響か、「なんとかなるでしょ~ヘラヘラ」みたいなクソな一面がスクスク成長してしまった。別にいいけど。

gakumado.mynavi.jp

日本で二番目に学生の多い大学なので、身近から有名になってゆく人もそれなりに多いです。皆大企業に就職してゆくし、声優、バンド、小説家などクリエイティブな方面で活躍する人もとても多いです。あ~あの人が、ってこと結構あります。わかりやすく何かになれて、肩書で己を示せるのっていいですよね~。許されている感じがして。私は特に何も示すものがないですけど、まぁ特に何も努力してないんで完全に自己弁護ですけど、「未完成」であることはある程度完成度が高いと思っています。「俺はまだ本気出してないだけ」ってあえて未知数を残すことは、別に悪いことじゃないと思うんですよね。サルトルの「その人が何者であるかは、その人が行ったことのみにて決定される」っていう価値観もまぁ現実的で耳が痛いんですけど、私みたいに余白を残さないと生きてゆけない人間もいるんですよね…。

私はこの歳でフリーターな上に、なんかよくわからん経歴も相まってか「なんかNUMさんって謎だよね…」みたいに言われることが結構多いです。会話をすればサブカルクソ女だし、まぁそりゃそうかとも思うんですけど…でも「謎」って、未知数を感じられていい言葉ですよね…(悪口だったとしてもいいよ)。

昔から、あれになりたい、これになりたいという将来の夢がありませんでした。小学校の頃から身体もメンタルも弱々だったので、日々を生きるのに精一杯だったし、そもそも普通に生きることってできるのかな…?と思ってました。予想通り、大人になった今もやっぱり身体もメンタルも弱いので、普通には働けないし、いつか自分の納得できるような「何者か」になれるのかな?という不安で毎日死にそうです。正直、暗黒と言っても差し支えないくらいの20代でした(あと二年あるけど)。でもその余白、未知数を愛することができないと、これから生きていくのとってもつらいだろうな…と思うので、これからも「謎」なまま生きていきたい。

防弾少年団と「青春」について

「I NEED U」から始まる、一連のMVの考察をされてる方が沢山いらっしゃいます。(私は特に何も考えずに観てました・・・)

考察された方の意見を色々拝見したのですが、WING~Fake Loveに関しては、制作者側が意図したものをずばり言い当てたのでは?と(個人的に)思われる解釈をされたブログ記事もありました。 

m.blog.naver.com

 なるほど・・・謎もどんどん解き明かされてきて、ラストが近づいているなという感じがします。

(けど人間は、意味深だったり、意味が隠されている方が魅力を感じるアホな生き物らしいじゃないですか・・・!公式からのストーリーの説明は無ければいいな〜と思います。それに、ストーリーの解釈を固定化して、その通りにしか意味を見出せなくなるのもちょっとつまらないしなぁと思います。ストーリーに沿って各々の曲が作られていたとしても、ひとつの曲だけを取り上げて、その曲の限定した世界観で魅力を感じることも良いと思うのです。私は「Euphoria」が現実逃避ソングとしてメチャクチャ好きなので、それを「乗り越えるべき仮象」と固定して捉えられてしまうのはシビアだな〜と思っちゃいますし・・・。ニーチェ云わく、世界はカオスとその解釈でしかないのです。好きなように解釈すれば良いのです!)

 

話を戻して、上に記したブログや、彼らのインタビュー等から受け取れる彼らのポリシー、スタンス通りにストーリーを解釈するならば、防弾少年団は「生活に限りなく肉薄した実存哲学を表現するアイドル」だなぁと感じました。そもそもアイドル自体がそういう機構なのかもしれないですけど。

一連のストーリーに示されるような「理想だけ見て逃避してちゃダメ、しっかり現実と向き合うことが大事!」なんて、一言で言っちゃえば非常にチープなテーマなんですけど、しかし防弾少年団にかかればその暴力的なまでのキラキラビジュアルパワー、圧倒的なダンススキルでのカル群舞、そして何よりそのコンセプトを細やかに表現した緻密な演出で見事に異化作用を施し、私達に新しい「青春」を提示してくれました。

そもそも青春というのは、必然的に一回性を内包していますよね。それも線ではなく、限りなく点に近い一回性。通時的に見れば飽きるほど繰り返されていることでも、共時的に見れば今ここで起きている生々しい現実です。だから人生という概念がそうである以上に、青春という概念に手垢がつくことはないのでしょうね。

ニーチェサルトルキェルケゴールに代表される実存哲学ですが、哲学は書物の中にあるだけではないことを改めて感じさせてくれますね。まぁ実存哲学と言いますが、MVで暗喩される生/死、仮象/現実、過去/未来などの二項対立は、今の趨勢、圧倒的に生や現実が勝ちますからね・・・(そもそもこの二項対立的な価値観というのが、すでに解体されつつあります)。

「Awake」に代表されるように、最近は理想に傷付き現実を知り初める少年の哀しさが描かれています。弁証法的に絶えず今を否定し乗り越え、イニシエーションを経て着実に大人になってゆく彼らを見ると、頼もしくも寂しい気持ちになりますね・・・。「BANANA FISH」でアッシュが、「風と木の詩」でジルベールが死んだことを大肯定するような女なので、私もいい歳ですが永遠の少年性に魅了されたままなのでしょうね・・・。いやでもそれは虚構だからなんです。アッシュもジルベールも虚構だし、(防弾メンバー7人の現実存在じゃなくて)"私が見てる防弾少年団"も虚構だから。彼らが彼らの人生を逞しく、したたかに生きてゆくよりも、いっそここでなんとかして永遠になってくれ・・・って気持ちがちょっとだけ湧いてしまうのも許してください。

「青春時代」って、どんなにしても使い古されない不滅のテーマですよね。そして「LOVE YOURSELF」、このテーマこそ絶対に青春時代に学ぶべきことですよね。自分を愛せないまま大人になっちゃったら悲惨ですもの。その後の人生ずっと青春に取り憑かれたままなのもまた良し、大いに結構と私は思いますけど(そういう人にはまた昏い陰鬱な情念の魅力がある)、そうならずに「いつでも今が花様年華だと言えるようになりたい」というしたたかな姿勢は、非常にパワフルで老獪で、また別の魅力がありますね。

 

ファンが防弾少年団に深みを求める心境は、やっぱり人の数だけそれぞれの「青春」があるから、一般化された意味での「青春」という言葉に汲み尽くせないものを求めて、それを彼らの表現に託すんだろうな〜と思います。ラプモンが「音楽は言葉の上にある」(『上にある』は『上位概念だ』って意味かな?)って言ってましたけど、本当にその通りだと思います。

哲学というのは、様々な歴史的・文化的な時代背景において、思想家達がそれぞれの見方・感じ方で世界を描写した、1つのストーリーです。そういう意味だと、彼らは彼ら自身の哲学を立派に提示していると思うのです。

防弾少年団と「愛」について

 アイドルの表現する「愛」に、とても興味があります。

 

  

 古代から人々が繰り返し問うてきた、「愛って何?」という問い。それに「『愛』と『人が生きる』ということは同じことなのではないか」と、素朴ながら力強く、そして最高に優しい答えを返した彼はすごい。愛を「崇高なもの」と遠ざけなかったあたり、彼らのスタンスから見ても非常に一貫している。

「愛」という広くて深い、未だ汲み尽くせない観念は、古代から現在に至るまで未だ定義し尽くされることがないですよね。これって、「愛」が「真・善・美」に深く関わっていて、同じ類いの性質を持ってるからじゃないかなって思います。人々が希求し、飽くなき情熱を燃やして止まない、けれども全てを知ったり、手に入れたりすることは決して出来ない、遠くて儚くて気紛れな性質(これはカントのアンチノミー『世界』『宇宙』『因果』『神』についてと同じで、人間の認識カテゴリーではカバー出来ない部分なのでは・・・?とも思います)。答えは出ないけど、求め続けるから問いは止まず、答えも止まず、終わりがない。そして、終わりのない歴史が続いてゆく。そういう一種不毛な情熱って、がむしゃらでひたむきで、なんだか胸を衝くような美を感じるんですよね・・・。そういうただでさえ儚くて曖昧な「愛」の現れる場面に、更に「青春」なんかを上乗せしちゃったら、そりゃー二重に魅惑的になっちゃいますよね・・・。そして彼らが青春を終えた後、そこで享受する愛だって美しいでしょうけど、「青春」という二重条件が外れる以前と比べてしまうでしょうね。青春の唯一性ほど尊ばれるものも、中々ないですから・・・。

 

それと、クオリアの問題もあるんじゃないかなって思います。彼らが今感じている、隣にいる仲間の体温、髪の輝き、海風の湿っぽさ、太陽の眩しさ、青い空・・・そういう具体的な感覚の共有は絶対的に断絶されているから人間は孤独だし、死ぬまで救いようもなく一人です。でも、一緒に住んで、歌って、踊って、常に隣にいる仲間と同じものを見ている・感じているという「思い込み」、言い換えれば「信じる」という行為、これもまたファンを惹きつける彼らの仲間愛なんだと思います。SNSでリアルタイムで現場の写真をあげてくれたり、配信ライブをしたりして、ARMY今何してるの?元気?○○見てくれた?愛してるよ、そういう風にファンを身近に設定する問いかけをしてくれるのも、彼らの「共有しようとする意識」の表れですよね。

ちなみに、古代ギリシアにおいては「愛」に相当する言葉はひとつではありませんでした。求める愛「エロス」、友愛「フィリア」、家族愛「ストルゲー」、与える愛「アガペー」。

防弾少年団の中だけで、この4種の愛が全て存在している(であろう)ことに驚きます。彼らはひとつの"愛の軍団"・・・(娘。)

彼らから神話的な性質を感じるのも頷けちゃう気がします。古代ギリシアにおいて、人間と神との距離は今ほど遠くありませんでした。むしろギリシアの神々のお話は、非常に人間くさい。「血汗涙」のMVを観ていると、それを感じるようです。