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思想・感情・オタク

リウマチの天使スケリグ

「肩胛骨は翼のなごり」/デイヴィッド・アーモンド

 

肩胛骨は翼のなごり (創元推理文庫)

肩胛骨は翼のなごり (創元推理文庫)

 

 

 

「ねえ、肩胛骨って、なんのためにあるの?」ぼくは訊いた。

「まあ、マイケル!」かあさんはいらだったように、ぼくを押しのけて通った。だけど、階段を途中まで降りたところで足を止め、またもどってきた。

そしてぼくの肩胛骨に沿って指を走らせた。

「肩胛骨は、人間が天使だったときの翼のなごりだといわれてる。いつかある日、またここから翼が生えてくるって」

「だって、それ、ただのお話でしょ。ちいちゃい子ども向けのおとぎ噺。そうでしょ?」

「さあね、それはどうかしら?かつて、あたしたちはみんな、翼を持ってたのかもしれない。そして、いつかある日、また、翼を持てるかもしれない」

 

星の王子さま」に次いで、私のバイブルになった児童書です(こういう小学校高学年向けくらいの児童書は、グッとくるものが多い気がする)。

原題は邦題と違って、"SKELLIG"、登場する謎の男の名前です。それを「肩胛骨は翼のなごり」にしたの、ホント天才だと思う。少なくとも私の中では、肩胛骨という単語にまつわるストーリーはこれしか浮かばない。肩胛骨って結構ニッチな部位だよね…?

 

主人公マイケルが、引っ越し先にある朽ち果てて今にも崩壊しそうなガレージの奥で、翼を持つ謎の男を発見するところからストーリーは始まる。

この謎の生き物スケリグの素敵なところは、汚さと美しさ、現実感と非現実感が絶妙なバランスで入り混じっているところ。

スケリグは、登場してすぐの頃ほど汚さや生々しさが際立つ書かれ方をしている。老人みたいな見た目で、みすぼらしく、埃まみれで汚くて、無愛想で、病気で苦痛にうめき、食べているものといったら虫や鼠。ペレット(猛禽類が骨や羽など消化できないものを吐き出した塊)を吐いたり、フクロウに餌を運んでもらってる描写があるあたり、鳥獣の擬人化に近いものなのかな…?と思わせる(隣に住んでいる女の子ミナが、進化論に触れて「(猿ではなく)もう少し美しいご先祖さまもいたらいいなと思う」と言ってるから、始祖鳥から進化した鳥人とかの可能性も匂わせる)。けれども、着ているスーツの下に固く折り畳まれた病んだ翼、それが露わになる描写ひとつで、あ、やっぱり天使かもしれない、と思わせるから不思議だ。折り畳まれこわばった翼がゆっくりとほどける瞬間、彼の生々しさは人間や動物と同じ「生き物」として、「生きた天使」の不思議な親近感と親愛の情で読者を包み込む。

スケリグは最後まで、自分が何者か断言することはない。

 

「あなたはなに?」

スケリグはまた肩をすくめた。

「なにか、だよ。きみみたいな、獣みたいな、鳥みたいな、天使みたいな、なにか」

彼は笑った。「そういうなにか、だな」

 

天使っていうのがそもそも比喩的な表現ではあるけど、翼がある/ないっていう表現は、色々な物事の比喩として捉えることができますよね。可能/不可能とか、非現実/現実とか、過去/未来(前世や死後という意味で)とか、無垢/老獪とか。そういう様々なものを投影できるから、大人が読んでもグッとくるんでしょうね…。想像力を思いっきり働かせる余地が作られているというか。

そういったファンタジックな要素だけでなく、現実の人間関係、特に家族関係も緊密に描かれている部分が泣けました。マイケルには、産まれたばかりの病弱な妹がいます。入退院を繰り返す赤ちゃんに不安を抱える家族。ラスト近くで、その妹とスケリグの一瞬の邂逅があるのですが、そこで見事に全てが噛み合うので感動してしまいます。安堵と切なさとぬくもり、そして「生きるっていうのは手段じゃない、大きな目的なんだなあ…」と私らしくもないことを考えてしまったりしました。

 

スケリグは「星の王子さま」の王子さまと同じように、最後は主人公達の元から去ってしまうんですよね。墜落した天使が、人間の愛情に癒され力を取り戻し、天に帰っていく。うーんやっぱり星の王子さまとプロット似てます。人の形をした人ならざる儚いもの、っていうテーマが私のツボだとわかりましたので、映画でも小説でもおススメがありましたら教えてください。AIと人間みたいなやつも好きです。

 

読もうと思った理由はこれf:id:nam_ami_dabutz:20180712103952p:image

blood,sweat&tearsのPVのテテ。

こんなん思い出さないわけにはいかないでしょ、、、

そして、私が大好きなAwakeの歌詞。

 

Maybe I, I can never fly
あの花びらのように 翼が付いたように舞うこともできない

Maybe I, I can't touch the sky
それでも手を伸ばしていたい

走ってみたいんだ もう少し

 

私が好きなもの、わかりやすすぎるな〜

未だ何者にもなれない私へ

サブカルクソ女として恥じることない半生を送ってきました。それ以上のものには、未だなれていません。

数年前に大学を辞めたときから、方向感覚を失ったまま生きています。自分が何歳かもちょっとよく…わかりません!!

20歳のときメンタルをぶっ壊して大学を休学、入院しました。私の通っていた大学の休学は最長4年間なので、4年まるまる休学。その間はたくさん絵を描いたり、映画やアニメを観たり、本や漫画を読んだり麻雀打ったりピアノやギター弾いたり…。雀荘や探偵社やスナックでアルバイトをしたりもしました。知人と会うのはなんか怖くて、ほとんど連絡もとらず、ずっとひきこもってました。それなのに今も変わらず仲良くしてくれている友人達、なんて心が広いんだろうか~~~~ありがとう~~~~!!!!!!

私が通っていた某大学は、良い意味でバラエティ豊か、悪い意味で言えば優等生と劣等生の格差が激しいという印象でした(もちろん私は劣等生の方です…)。

成績優秀で留学に行ったりとかもして、サークルもバイトもしっかりやって、ばっちり就活キメてきちんと4年で卒業する超人もいれば、サークルやってるだけで留年して5年生6年生とかいう人もフツーにいる。まず他の大学よりも留年する人の割合が圧倒的に高いし、途中で大学に来なくなる人もメチャクチャ多い。しまいには「中退して一人前」とかいう(もちろん冗談ですが)。

私は文学部の哲学コースに在籍していたのですが、そこの人達はより一層クセがすごかった。天才から本物のバカまでそろい踏みって感じだった。私はその中でバカにもなれない劣等生だった。学部学科の先輩で、トリプルファイヤーというバンドの吉田さんという方がいるのですが、なんかもう象徴的で…。こういう人が、本物のバカの部類です(褒めてる)。こういう大学で数年過ごした悪影響か、「なんとかなるでしょ~ヘラヘラ」みたいなクソな一面がスクスク成長してしまった。別にいいけど。

gakumado.mynavi.jp

日本で二番目に学生の多い大学なので、身近から有名になってゆく人もそれなりに多いです。皆大企業に就職してゆくし、声優、バンド、小説家などクリエイティブな方面で活躍する人もとても多いです。あ~あの人が、ってこと結構あります。わかりやすく何かになれて、肩書で己を示せるのっていいですよね~。許されている感じがして。私は特に何も示すものがないですけど、まぁ特に何も努力してないんで完全に自己弁護ですけど、「未完成」であることはある程度完成度が高いと思っています。「俺はまだ本気出してないだけ」ってあえて未知数を残すことは、別に悪いことじゃないと思うんですよね。サルトルの「その人が何者であるかは、その人が行ったことのみにて決定される」っていう価値観もまぁ現実的で耳が痛いんですけど、私みたいに余白を残さないと生きてゆけない人間もいるんですよね…。

私はこの歳でフリーターな上に、なんかよくわからん経歴も相まってか「なんかNUMさんって謎だよね…」みたいに言われることが結構多いです。会話をすればサブカルクソ女だし、まぁそりゃそうかとも思うんですけど…でも「謎」って、未知数を感じられていい言葉ですよね…(悪口だったとしてもいいよ)。

昔から、あれになりたい、これになりたいという将来の夢がありませんでした。小学校の頃から身体もメンタルも弱々だったので、日々を生きるのに精一杯だったし、そもそも普通に生きることってできるのかな…?と思ってました。予想通り、大人になった今もやっぱり身体もメンタルも弱いので、普通には働けないし、いつか自分の納得できるような「何者か」になれるのかな?という不安で毎日死にそうです。正直、暗黒と言っても差し支えないくらいの20代でした(あと二年あるけど)。でもその余白、未知数を愛することができないと、これから生きていくのとってもつらいだろうな…と思うので、これからも「謎」なまま生きていきたい。

防弾少年団と「青春」について

「I NEED U」から始まる、一連のMVの考察をされてる方が沢山いらっしゃいます。(私は特に何も考えずに観てました・・・)

考察された方の意見を色々拝見したのですが、WING~Fake Loveに関しては、制作者側が意図したものをずばり言い当てたのでは?と(個人的に)思われる解釈をされたブログ記事もありました。 

m.blog.naver.com

 なるほど・・・謎もどんどん解き明かされてきて、ラストが近づいているなという感じがします。

(けど人間は、意味深だったり、意味が隠されている方が魅力を感じるアホな生き物らしいじゃないですか・・・!公式からのストーリーの説明は無ければいいな〜と思います。それに、ストーリーの解釈を固定化して、その通りにしか意味を見出せなくなるのもちょっとつまらないしなぁと思います。ストーリーに沿って各々の曲が作られていたとしても、ひとつの曲だけを取り上げて、その曲の限定した世界観で魅力を感じることも良いと思うのです。私は「Euphoria」が現実逃避ソングとしてメチャクチャ好きなので、それを「乗り越えるべき仮象」と固定して捉えられてしまうのはシビアだな〜と思っちゃいますし・・・。ニーチェ云わく、世界はカオスとその解釈でしかないのです。好きなように解釈すれば良いのです!)

 

話を戻して、上に記したブログや、彼らのインタビュー等から受け取れる彼らのポリシー、スタンス通りにストーリーを解釈するならば、防弾少年団は「生活に限りなく肉薄した実存哲学を表現するアイドル」だなぁと感じました。そもそもアイドル自体がそういう機構なのかもしれないですけど。

一連のストーリーに示されるような「理想だけ見て逃避してちゃダメ、しっかり現実と向き合うことが大事!」なんて、一言で言っちゃえば非常にチープなテーマなんですけど、しかし防弾少年団にかかればその暴力的なまでのキラキラビジュアルパワー、圧倒的なダンススキルでのカル群舞、そして何よりそのコンセプトを細やかに表現した緻密な演出で見事に異化作用を施し、私達に新しい「青春」を提示してくれました。

そもそも青春というのは、必然的に一回性を内包していますよね。それも線ではなく、限りなく点に近い一回性。通時的に見れば飽きるほど繰り返されていることでも、共時的に見れば今ここで起きている生々しい現実です。だから人生という概念がそうである以上に、青春という概念に手垢がつくことはないのでしょうね。

ニーチェサルトルキェルケゴールに代表される実存哲学ですが、哲学は書物の中にあるだけではないことを改めて感じさせてくれますね。まぁ実存哲学と言いますが、MVで暗喩される生/死、仮象/現実、過去/未来などの二項対立は、今の趨勢、圧倒的に生や現実が勝ちますからね・・・(そもそもこの二項対立的な価値観というのが、すでに解体されつつあります)。

「Awake」に代表されるように、最近は理想に傷付き現実を知り初める少年の哀しさが描かれています。弁証法的に絶えず今を否定し乗り越え、イニシエーションを経て着実に大人になってゆく彼らを見ると、頼もしくも寂しい気持ちになりますね・・・。「BANANA FISH」でアッシュが、「風と木の詩」でジルベールが死んだことを大肯定するような女なので、私もいい歳ですが永遠の少年性に魅了されたままなのでしょうね・・・。いやでもそれは虚構だからなんです。アッシュもジルベールも虚構だし、(防弾メンバー7人の現実存在じゃなくて)"私が見てる防弾少年団"も虚構だから。彼らが彼らの人生を逞しく、したたかに生きてゆくよりも、いっそここでなんとかして永遠になってくれ・・・って気持ちがちょっとだけ湧いてしまうのも許してください。

「青春時代」って、どんなにしても使い古されない不滅のテーマですよね。そして「LOVE YOURSELF」、このテーマこそ絶対に青春時代に学ぶべきことですよね。自分を愛せないまま大人になっちゃったら悲惨ですもの。その後の人生ずっと青春に取り憑かれたままなのもまた良し、大いに結構と私は思いますけど(そういう人にはまた昏い陰鬱な情念の魅力がある)、そうならずに「いつでも今が花様年華だと言えるようになりたい」というしたたかな姿勢は、非常にパワフルで老獪で、また別の魅力がありますね。

 

ファンが防弾少年団に深みを求める心境は、やっぱり人の数だけそれぞれの「青春」があるから、一般化された意味での「青春」という言葉に汲み尽くせないものを求めて、それを彼らの表現に託すんだろうな〜と思います。ラプモンが「音楽は言葉の上にある」(『上にある』は『上位概念だ』って意味かな?)って言ってましたけど、本当にその通りだと思います。

哲学というのは、様々な歴史的・文化的な時代背景において、思想家達がそれぞれの見方・感じ方で世界を描写した、1つのストーリーです。そういう意味だと、彼らは彼ら自身の哲学を立派に提示していると思うのです。

防弾少年団と「愛」について

 アイドルの表現する「愛」に、とても興味があります。

 

  

 古代から人々が繰り返し問うてきた、「愛って何?」という問い。それに「『愛』と『人が生きる』ということは同じことなのではないか」と、素朴ながら力強く、そして最高に優しい答えを返した彼はすごい。愛を「崇高なもの」と遠ざけなかったあたり、彼らのスタンスから見ても非常に一貫している。

「愛」という広くて深い、未だ汲み尽くせない観念は、古代から現在に至るまで未だ定義し尽くされることがないですよね。これって、「愛」が「真・善・美」に深く関わっていて、同じ類いの性質を持ってるからじゃないかなって思います。人々が希求し、飽くなき情熱を燃やして止まない、けれども全てを知ったり、手に入れたりすることは決して出来ない、遠くて儚くて気紛れな性質(これはカントのアンチノミー『世界』『宇宙』『因果』『神』についてと同じで、人間の認識カテゴリーではカバー出来ない部分なのでは・・・?とも思います)。答えは出ないけど、求め続けるから問いは止まず、答えも止まず、終わりがない。そして、終わりのない歴史が続いてゆく。そういう一種不毛な情熱って、がむしゃらでひたむきで、なんだか胸を衝くような美を感じるんですよね・・・。そういうただでさえ儚くて曖昧な「愛」の現れる場面に、更に「青春」なんかを上乗せしちゃったら、そりゃー二重に魅惑的になっちゃいますよね・・・。そして彼らが青春を終えた後、そこで享受する愛だって美しいでしょうけど、「青春」という二重条件が外れる以前と比べてしまうでしょうね。青春の唯一性ほど尊ばれるものも、中々ないですから・・・。

 

それと、クオリアの問題もあるんじゃないかなって思います。彼らが今感じている、隣にいる仲間の体温、髪の輝き、海風の湿っぽさ、太陽の眩しさ、青い空・・・そういう具体的な感覚の共有は絶対的に断絶されているから人間は孤独だし、死ぬまで救いようもなく一人です。でも、一緒に住んで、歌って、踊って、常に隣にいる仲間と同じものを見ている・感じているという「思い込み」、言い換えれば「信じる」という行為、これもまたファンを惹きつける彼らの仲間愛なんだと思います。SNSでリアルタイムで現場の写真をあげてくれたり、配信ライブをしたりして、ARMY今何してるの?元気?○○見てくれた?愛してるよ、そういう風にファンを身近に設定する問いかけをしてくれるのも、彼らの「共有しようとする意識」の表れですよね。

ちなみに、古代ギリシアにおいては「愛」に相当する言葉はひとつではありませんでした。求める愛「エロス」、友愛「フィリア」、家族愛「ストルゲー」、与える愛「アガペー」。

防弾少年団の中だけで、この4種の愛が全て存在している(であろう)ことに驚きます。彼らはひとつの"愛の軍団"・・・(娘。)

彼らから神話的な性質を感じるのも頷けちゃう気がします。古代ギリシアにおいて、人間と神との距離は今ほど遠くありませんでした。むしろギリシアの神々のお話は、非常に人間くさい。「血汗涙」のMVを観ていると、それを感じるようです。

防弾少年団(BTS)は、なぜ狂おしいほどに切ないのか?

ロマン的な”少年性”という概念に狂おしいほどの切なさを感じる方にとって、このアイドルグループは凶器です。

 

漫画で言うなら、少年漫画における高校部活モノ。「スラムダンク」が象徴的。

 

「オヤジの栄光時代はいつだよ… 全日本の時か?

 オレは………オレは今なんだよ!」(『スラムダンク』 第31巻)

 

もしくは「トーマの心臓」「風と木の詩」「BANANA FISH」「MAMA」とか、ちょっと耽美な世界観の少女漫画。

小説で言うなら「草の花」「燃ゆる頬」「ドリアン・グレイの肖像」「罪と罰」「車輪の下」「寄宿生テルレスの混乱」とか、長野まゆみ(特に初期作品)「ぼくはこうして大人になる」「鳩の」とか。

少年から青年に移りゆく一瞬間、生命が鮮烈に燃え上がるような輝きの中で、彼らの感情が激しく揺れ動く様子を表現した作品・・・私は昔から、こういうタイプの作品にすごく弱いです。

 

防弾少年団(BTS)は、2018年5月現在、20~25歳のメンバーで構成されています(デビュー時の年齢は15~20歳)。

彼らのグループ名には「10代・20代に向けられる社会的偏見や抑圧を防ぎ、自分たちの音楽を守り抜く」という意味が込められているのですが、そのコンセプト通り、初期の彼らの曲は基本的に等身大です。スクールライフがテーマの初期のMVを見るとわかりやすく、のびのびと”俺ら怖いもん無しだぜ”ってイキッててほほえましい。10代の反抗心を全面に押しだしたらしいイカツい格好がまた、テンプレすぎて可愛らしい。

youtu.be

 

youtu.be

 

しかし、上記のようなコンセプトの学校三部作に続く、青春三部作「花様年華(화양연화)シリーズ」から風向きが変わってくる・・・。

青春をもっともよく表す言葉として『人生で最も美しい瞬間』を意味する『花様年華』という言葉が選ばれた。このアルバムは少年が学校を卒業し、青年へと成長する過程の苦悩や葛藤を描き、青春の美しさとその本質に潜む危うさに焦点をあてた。(wikipedia

ここらへんから、形而下の存在である”ありのままの高校生”コンセプトを離れ、より”Idol(偶像)”らしい形而上の概念を纏い始めました。

青春の刹那性は、全く不可逆で代替不可能であるがゆえに、汎用的な価値基準を物差しに評価されることから逃れます。何者にも否定できない、絶対的な聖域から下賜される最高に優しいメロディはここに完成した!!!!!!!!!!!!!!

 

youtu.be

 

Euphoriaの歌詞、すごいですよね・・・。

(以下、

https://ameblo.jp/merody-0126-2/theme-10073569697.htmlより引用

させていただきました)

Euphoria
Take my hands now
You are the cause of my euphoria
Close the door now
When I'm with you I'm in utopia
Won't you please stay in dreams


저기 멀리서 바다가 들려(遥か彼方で海が聞こえる)
꿈을 건너서 수풀 너머로(夢を渡った森の向こう)
선명 해지는 그곳으로 가(鮮明になる その場所へ向かおう)

모래 바닥이 갈라진 대도(砂の地面が割れたとしても)
그 누가 이 세곌 흔들어도(誰かがこの世界を揺さぶったとしても)
잡은 손 절대 놓지 말아줘(握った手は決して離さないでくれ)
제발 꿈에서 깨어나지 마(どうかこの夢から覚まさないでくれ)
너는 내 삶에 다시 뜬 햇빛(君は僕の人生に再び昇った日の光)
어린 시절 내 꿈들의 재림(幼き頃の夢の再臨)

혹시 여기도 꿈속 인건지(もしかしたらここも夢の中なんだろうか)
꿈은 사막의 푸른 신기루(夢は砂漠の青い蜃気楼)
내 안 깊은 곳의 a priori(僕の中 奥深くの a priori)

숨이 막힐 듯이 행복해져(息が詰まるほどの幸せを感じる)

주변이 점점 더 투명해져(辺りがだんだんと透明になっていく)
저기 멀리서 바다가 들려(遥か彼方で海が聞こえる)
꿈을 건너서 수풀 너머로(夢を渡った森の向こう)
선명 해지는 그곳으로 가(鮮明になる その場所へ向かおう)

 

初めて聴いたとき、ぽろっと涙がこぼれました。

特に英語の歌詞の部分、本当に胸が締め付けられます。

心の底から大好きな人とずっと一緒で、一緒に眠ったり、一緒にご飯食べたり、笑い合ったり・・・そういう心地よさから「生身」の部分を抜き取って昇華したような美しさ。だって、「幼き頃の夢の再臨」ですよ?母胎回帰願望をオブラートに包んだ世界観って鉄板ですよね・・・。理想化された恋愛は、もはやただの胎内回帰願望なのかもしれない・・・。

見事なまでに、優しさと抒情的な美しさ以外の不要な概念が削ぎ落とされた世界。年月の垢にまみれる前の、純粋で透明な少年性。 

メンバー7人で子犬のようにじゃれあうMVを見てると、彼らの「アイドル」として生きている世界には彼ら(主人公)とARMY(母親)しかいなくて、いずれ産まれなくてはならない(=大人にならなくてはならない)切なさが剥き出し。ずっと私の胎内に抱いてたい・・・。

 

青春のその一瞬がどのようなストーリーに彩られようとも、それが唯一無二である限りにおいて圧倒的に肯定されます。

メンバーも全員成人して、2017年7月に「現実に安住することなく、夢に向かって絶えず成長していく青春(Beyond The Scene)」というコンセプトが付け加えられたんですけど、なんか最近、初期より全然儚げで硝子の少年って感じになってきてるんですよね・・・。初期の彼らは、現実で現実と戦い乗り越えて行くリアリスト・実存主義者的な描写をされているんですけど、だんだんとロマンチスト・本質主義的な様相を呈してきているんですよね。そもそも「青春」自体、現実と理想が激しくぶつかり合う戦いの場なわけですから、その両方やってくれてるんだなあと思います。

 

「青春=花盛り」を、まず「花はいつか散る」という陰のイメージで覆い尽くしたあと、その中の輝かしい陽のイメージを覗き込むような鑑賞の仕方をしてるから、輝けば輝くほど悲しく切なくなっちゃうんですよね。

あらかじめ死が用意された人生のように、あらかじめ終焉が用意された青春。(もしくは、将来結婚をすることもあるだろう彼らの、”誰のものでもない今”!!!!)

 

探り当ててキモチイイ「真理」って、大体「科学」「宗教」「芸術」に基づいてると思うんですけど、ハイデッガーが「芸術は真理を作品のうちへと打ち立てることである」と言ってます。(この『真理』は、本来『存在者』についての真理なのですがここでは放っておきます・・・)

防弾少年団は、私にとっての「青春」という真理を内包する素晴らしいグループです。発見できてキモチイイ。出会えてよかった。

 

 

それにしても、儚いものはなぜ切ないんだろう?いや、切ないものは儚いって決まってるんです。人間はそう感じる仕組みになってるんです。ってトートロジーだけど、一応それで納得することもできます。けど映画観たり小説読んだり音楽聴いたりして、新しい作品に出合うたびに新しい「切なさ」に襲われて、そのたびに、この感情はまだ言語化されてない!って思うんですよね。だって、毎回違う媒体による刺激なんだから(生理学的な脳への刺激ではなく感性への刺激ということにしてください)「切なさ」も絶対違うものじゃないですか。だから毎回、その胸の苦しさをなんとか言葉で説明しようとするんですけど、毎回スッキリしないまま終わります。そもそも「切なさ」って言葉が便利すぎますよね?その言葉の中に、もっと幾つもの言語化することができる感情が含まれてるに違いありません。多分死ぬまで、ずっとこの「切なさ」からは逃れられないんだと思います。幸せな呪いですね。

現在進行形のコンテンツを享受する愉しさ

流行を追って最新の娯楽を楽しむ人は、きっと日常生活が忙しい人なんだろうと思います。哀しいけれど私は暇人なので、ほとんど流行を追うことがありません。自分が興味あるものを自分自身でリサーチする時間が、たっぷりあるので。現在進行形の共時的カルチャーグループから外れて、家で一人、堆積した過去から化石を掘り出す作業に没頭しています。掘っても掘ってもダイヤモンドがざくざく採掘されるから、全く飽きることがないので困ります。

でも、たまに「これと同じ世代に生まれて良かった〜」って思えるような流行に出合えると、ホントに嬉しいですよね・・・。解散してないバンド、存命の作家を好きになるって、なんて奇跡的で素晴らしいことだろう・・・。

音楽的には私はずーっとひねくれていたので、20代も半ばを過ぎてからメインカルチャーの楽しさに気付き始めました。宇多田ヒカルとかGLAYとかB’zとか、20歳こえてから初めて聴いた。それなのに今、私が中学生の頃にGreen DayNirvanaWeezerでブッ飛ばしてた鬱憤を、高校生の頃にMars VoltaやPixiesNumber Girlで逃避してた現実を、この歳になって取り戻すかのように防弾少年団氣志團を聴いているのが笑えます。アイドルとかコミックバンドなんて、思春期のとき最も毛嫌いしていたもののひとつなのに。大人になったなぁ・・・。

私の青春はいつだってしょっぱい薄曇りだったので、多分一生死ぬまで青春懐古厨ですけど、やっぱり尾崎豊が胸の底まで一番沁みます。

文語/口語の距離感

現実から一定の距離を隔てて存在してくれる小説が好きだ。
新しい作家を開拓しているとたまに、あまりにも口語的すぎる文体の作家に出会う。これが読んでいて非常に興醒めする。 現実に対する馴れ馴れしいほどの接近。

文語は日常で使うには耳慣れず違和感があるから、意識せずとも自然に避ける。それが自然と、現実と虚構の距離を作り出す。

文語と口語、対応するそれらはたとえ同じ概念を表していても、字面から受ける表象的イメージや音の響きから受けるニュアンスの違いがある。『"実際に"人が人と出くわすこと』と『"物語において"人が人に逢着すること』の現象としての違いを表現している。それは時代によって流動性はあるが基本的にきっちりと、概念的同一性を保持しながら現象的相違性を示してくれる。